2021年12月12日 礼拝説教「おことばどおり」

聖書: ルカの福音書 1章26~38節

Ⅰ.はじめに

 近くの公園で、一人でラジオ体操をして、町内を散歩するのが最近の日課とお話したことがあります。その公園の一角の社会福祉会館に来られる方が、私のラジオ体操を見ていて、「小暮さん、今度この公園で火曜と木曜に、ラジオ体操をするんやけど、前に出てやってくれへん?」と言われました。「毎回は無理だけど」と引き受け、11月半ばから始まりました。社会福祉協議会が主催だと後日知りました。火曜と木曜に30人ほど集まります。その帰り道、年配の女性3人が賑やかに話しながら前を歩いていました。「お嬢様方とは言いませんが、お姉様方、とても楽しそうですね」と言いましたら、大笑いして何気ない話をしてくださいました。その「お姉様、お兄様方」や私より少し下の世代までなら「伝言板」というものをご存知かと思います。携帯電話のない時代、駅の改札口などにある黒板に「待ってたけど先に行くよ」とか書いて伝えたのです。相手が気づかなければ、伝言を信じなければいつまでも会えない場合もあります。携帯で伝言がすぐ届くはずの現在も、その伝言に気づくか、信じるかは、本人次第です。「信じる」とはどういうことでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.突然の伝言(ルカの福音書 1章26~33節)

 それはいつか?今から約2021年前、ザカリヤという人に御使い(天使)が現われて「六か月目」(26節)でした。それはどこか?それは西アジアのガリラヤという地方、今のイスラエルの国の北部、ナザレという村です。だれへの伝言か?それは古代のイスラエル王国のダビデ王の子孫にあたるヨセフという人の婚約者のマリアという処女にあった伝言です。

 では、神様が御使いに託した伝言の内容は何か?28節を読みましょう。突然の「おめでとう」です。あまりにも一方的で、マリアが「このことばにひどく戸惑って、・・・考え込んだ」(29節)のもよくわかります。御使いは名前を呼びます。マリアには「マリア」(30節)、ザカリヤには「ザカリヤ」(13節)と呼んでいます。二人の名を呼んだこの御使いはガブリエルという名で(19,26節)、この約600年前、ダニエルという人に呼びかけ、救い主についての神様の伝言を届けたのも同じ御使いでした(ダニエル書9:21~28)。マリアに告げられたことは何か?31節を読みましょう。それは、「あなたは身ごもって男の子を産む、イエスと名づけよ」という伝言でした。突然で一方的です。「イエス」とは「主は救い」という意味。「神様は私たちを救ってくださるお方だ」という意味です。「救い」とは、それがないと助からないという、私たちの命、生き方そのものに関わることです。何からの「救い」か?それは、私たちが神様に造られ生かされているのに、神様を知らず神様から離れてしまった「罪」とその結末である「滅び」からの「救い」です。マリアから生まれる男の子はこの「罪」が全くないお方で、すべての人の身代わりとして十字架で死なれることになります。しかも、その生涯は死で終わらず、3日目に復活されます。32~33節に「ダビデの王位」「その支配に終わりはありません」とあります。マリアから生まれるお方は王、その支配は永遠、つまり、私たちのために「神の国」を確立してくださるのです。

 そのようなお方が、救い主が、自分のおなかから人として生まれる。しかも、相談ではなく、押しつけというか一方的な通告です。これは何を意味しているのか?何としても実現したいという神様の情熱がここにあるのではないでしょうか。それは、今の私たちが、例えば、クリスチャンの家に生まれたとか、家に『聖書』が何冊もあったとか、選んだわけでもないのに友人がクリスチャンだったとか、私の場合ですが頼んでもいないのに隣りに宣教師一家が住んでいたということなどと似ているのではないでしょうか。神様の働きかけは突然に、理由なく、一方的に。それは、何とかしてご自分のもとに帰って「神の国」に入り、ともに生活してほしいとの神様の情熱をあらわしているのではないでしょうか。

2.信じるとは(ルカの福音書 1章34~38節)

 「信じる」とはどういうことでしょうか?それは、神様からの語りかけや働きかけを、自分がどう受け止めるか、自分をその語りかけに合わせてどう変えるかということです。

 「信じる」とは、わからないことは質問してよいということでもあります。34節を読みましょう。「どうして」とは「そんなことが起こるはずがない」と疑っているというよりは、「そんなことが起こるのは、どのようにしてか」と、それが起こるのを前提にした問いに思えます。御使いは答え、これから起こることがマリアにさらに詳しく知らされました(35~37節)。彼女が身ごもるのは「聖霊」である神様によるのだとその方法が明らかにされました(35節)。また、同じような不思議を経験しているエリサベツの実例、証しも示されました(36節)。さらに、神にとって不可能なことはないと宣言されたのです(37節)。

 「信じる」とは、「記憶する」とか「わかる」ことではなく、「受け入れる」ことです。38節を読みましょう。マリアは、御使いが告げる神様のことばを「この身になりますように」と受け入れました。「信じる」とは、『聖書』のことばを自分の身にそのまま起きるようにと受け入れることです。マリアは、「信じる」ということの見本だと言えます。みことばは、今の私たちにも実現します。例えば、ヨハネ1:12です。「この方」とはイエス様です。イエス様を受け入れるとは、マリアのようにお腹に宿すことではありませんが、イエス様を救い主として自分自身に迎え入れることです。その人に何が起きるか?その人には「神の子どもとなる特権」が与えられ、この「おことばどおり」のことが起きるのです。「こんな自分が神の子どもに?」と信じられないですか。「どのようにして?」とマリアのように質問してよいのです。すべてはイエス様によってです。神様の子どもにふさわしくない自分の罪をすべて背負ってイエス様が十字架で死なれ、3日目に復活されたという、神様が備えた「救い」の方法によって、「おことばどおり」神の子どもとされるのです。

Ⅲ.むすび

 「このところ、祈るのに困難を感じています。朝の黙想の間、神と神の臨在に関係ない、じつに多くのことが頭をよぎります。思い煩い、考え込み、苦悩します。心から祈ることができません」(『ナウエンと読む福音書』,p.25)ということばに、最近共感を覚えました。頭の中が混乱し、バラバラになるような感じでしょうか。ナウエンは、「おことばどおり、この身になりますように」というマリアの祈りに耳を傾けると、落ち着いて平安になれると言いました。マリアはイエス様の一番身近にいた人、みことばが自分に実現するようにと生活したモデルです。マリアについて、カトリック教会に属する私の中学の同級生は、「理屈ではなく、マリア様を通してイエス様の愛を知るような」、自分はそんなふうに感じていますと教えてくれました。私たちは、イエス様を信じて生きる人のモデルとして、マリアにもっと注目してよいのではないでしょうか。「おことばどおり、この身になりますように」と神様の語りかけを自分に迎え入れましょう。

(記:牧師 小暮智久)