2021年10月10日 礼拝説教「何を手放すか」

聖書: マルコの福音書 10章 17~22節

Ⅰ.はじめに

 日本は豊かでしょうか?豊かさとは何でしょうか?生活に必要な「物」は豊かにあるように思います。しかし、それだけでは何かが足りないと、「心」の豊かさというものに価値が置かれるようにもなってきました。今回の「コロナ禍」と言われる状況の中で私たちは、「物」は豊かでも、県境を越える移動など自由が制限され、「心」は豊かでも、誰かと会いたい時に思うようにならない不自由さを経験しています。今、多くの人は、どこにでも行ける「自由」、制限なしで思うように過ごせる「自由」というものの豊かさを求めているかもしれません。人が求める豊かさは、「物」とか「心」とか「自由」とか、そのときの社会状況で移り変わるように思えます。しかし、「自分がどう思うか」だけを基準にしていると、どの豊かさであっても結末はむなしいのではないでしょうか。今日は、物も心も豊かであったはずの人が、イエス様のもとへ行った出来事を、『聖書』から思い巡らしてみましょう。

Ⅱ.みことば

1.ある人の質問に隠れた意図(マルコの福音書 10章17~18節)

 今から2000年ほど前の西アジアのユダヤ地方で、ある人がイエスというお方と出会います。その出会い方の描写も興味深く感じます。「駆け寄り」(17節)という熱心さ、「ひざまずいて」(17節)という謙遜さが伝わってきます。この人はどんな人か?あとでわかるのは「多くの財産を持っていた」(22節)ということです。また、『聖書』には同じ出来事を別の人が書いている所があり、マタイは「この青年」(19:20)、ルカは「ある指導者」(18:18,ユダヤ教の教会役員とも考えられる)と書いています。資産家で若く、地位や立場のある人だということが見えてきます。今の時代でならエリートとか「勝ち組」と呼ばれる人かもしれません。この人の質問は、何でしょうか?まず「良い先生」という呼びかけがあり、「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」という問いがあります。

 イエス様がまず取り上げたのは「良い先生」という呼びかけでした(18節)。私たちが聞き流してしまいがちでも、イエス様はそこに隠れた意図をお見逃しになりません。「なぜ、わたしを『良い』と言うのか」「良いお方は神のみだ」と言われました。どういうことでしょうか?「良い」と呼べるかどうかは、神を基準として判断すべきだが、わたしを『良い』と呼ぶあなたは何者か?それは、あなたの基準によるのか?」と問いかけたのです。彼の質問に出てくる「永遠のいのち」とは「神の国(神の支配)に入ること」を指し、「自分が何をしたらそれが得られるか」という問いには、自分がすることでそれを得られるはずだというこの人の基準が暴露されています。彼には、「神はどう考え、何をしてくださるか」という発想がありませんでした。イエス様は彼を、神の前に立たせたかったのです。

 今の私たちも、さまざまな関心や質問、悩みや重荷をもって、誰でも教会に行くことができます。そこには、自分でも気づかない隠れた意図があるかもしれません。イエス様は、それに気づかせ、考え方の基準や軸を、自分から神に移すよう促してくださいます。

2.イエス様のお答えの意図(マルコの福音書 10章19~22節)

 この人の質問の中心点に対し、イエス様は「戒め」を持ち出します。この人が、この「戒め」を語られたのが神様であることを意識して、「良い」ことの基準である神様の前に立つならば、自分の欠けや罪に気づくはずだったのではないでしょうか。19節を読みましょう。イエス様が示した「戒め」は、モーセの十戒の後半のみで、人に対する責任のみです。神に対する責任の「戒め」は省かれています。そのことに気づいていたら、この人の次の答えも違っていたかもしれません。イエス様のお答えには、人に対する責任を、神が望むように果たしているかを問いかけ、自分には神の前に欠けがあると気づかせようとする意図があったのではないでしょうか。この人はどう答えたか?20節を読みましょう。彼は、戒めを守ることで自分が「永遠のいのち」を獲得でき、「物」の豊かさだけでなく「心」の豊かさも手に入れられると考えている彼自身の人生の基準を暴露したことになります。「何をしたら、天国に入れるか」というこの人の考え方で行くなら、神の要求をすべて完全に守らなければなります。そんなことが可能でしょうか。彼がそのように考えて努力しつつも、「自分には何かが足りないのではないか」と思えたのは神様からの招きだったのでしょう。

 イエス様は「彼を見つめ、いつくしんで」(21節)言われました。この態度には、この人を閉め出すのではなく、どんな人でも「永遠のいのち」「神の国」「神との永遠の絆」へと招き入れたいというイエス様の意図が込められています。21節を読みましょう。誤解してはなりません。「貧しい人に施しをしたら、天国に入れます」ということではありません。「神よりも拠り所にしているもの(この人の場合には『富』であり、『何をすれば天国に入れるかという自分勝手な考え方』)を手放して、わたしに従って来なさい。そうすれば、神が導いてくださいます」とイエス様は言われたのです。

 「自分を基準とする考え方」を手放さなければ、「永遠のいのち」を得ることも「神の国」に入ることも、「人にはできないこと」(27節)です。だれも、自分の考えや力では、「神の国」に入れないのです。しかし、自分が持っている合格ラインのような基準そのものを手放し、自分は資格のない、無力な者だと認めるなら、この直前にイエス様が腕に抱かれた子どもたちのように、「神の国はこのような者たちのものなのです」(14節)。

 イエス様は富や金持ちが悪だとは言われません。富をどう扱うかが大切なテーマです。扱い方によっては、「神の国」に入る妨げとなり、悪に陥るきっかけとなり得ます。「わたしに従って来なさい」(21節)というイエス様のお招きに、私たちだったらどうするでしょうか?22節を読みましょう。この人は、富を手放せず、イエス様を手放してしまいました。イエス様は追いかけて、無理に引き止めなさいません。それぞれを尊重されるのです。

Ⅲ.むすび

 実はこの人は、拠り所としていた富や品行方正さに支配されていたのではないでしょうか。「永遠の命」「神の国」とは「神の王国」で、神に支配されることを受け入れる必要があります。彼の生き方は、「神の国(神の支配)」を占め出すものだったのです。言わば「自分の王国」か「神の王国」か、どちらを受け入れ、どちらを手放すかが問われていたことになります。あなたも私も今、イエス様の前にいます。あなたを支配しているもの、手放す必要があるものは何でしょうか?私たちは自分の力でそれを手放すことができません。しかし、神にはできます。神は既にその備えをしてくださいました。神に造られたのに、自分の王国を築く反逆のために、イエス様が十字架で身代わりに死なれ、3日目に復活された事実こそ、その備えです。イエス様を救い主と信じ受け入れるなら、「神の国」(神の支配)が、神との永遠の絆という豊かさが、今日あなたに始まります。今週も「神の国」に生かされるなら、何を手放しても惜しくないのではないでしょうか。

(記:牧師 小暮智久)