2021年9月12日 礼拝説教「信じてからの疑い」

聖書: ルカの福音書 7章 18~23節

Ⅰ.はじめに

 私たちが日本で『聖書』を読むきっかけ、教会に行くきっかけというのは色々だと思います。また、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けてから、どのように過ごしていくかというのも、様々ではないでしょうか。ある人は素直に信じ続け安定した信仰生活を続け、ある人は祈っているのに次々と問題が起きるかもしれません。ある人は『聖書』を読むと次々と疑問がわいてきて悩み、ある人は教会で誰かの言葉や態度につまずき、ある人は洗礼を受けてしばらくすると教会に行かなくなってしまうかもしれません。洗礼を受けてから教会に行かなくなった人はかなり多いようです。イエス様を信じて救われたことはゴールではなく新しいスタートで、そこから始まるイエス様との生涯の旅、旅仲間である教会の人々との生涯の旅こそが大切です。その旅で自分の課題に気づいたり、対人関係で悩んだり、様々な疑問や疑いで悩むこともあるでしょう。「信じてから」こそが非常に大切なのです。

 私たちの教会の礼拝では2017年から「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は前回8月15日の続きの所です。私たちは、イエス様を信じてから何か疑問をもったり疑ったりしたとき、どうしたらよいのでしょうか?ともにみことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.ヨハネの疑問(ルカの福音書 7章18~20節)

 「ヨハネの弟子たちは」(18節)とあります。このヨハネとは誰か?イエス様の弟子にもヨハネという人がおり「ヨハネの福音書」などを書きました。しかし、このヨハネは「バプテスマ(洗礼者)のヨハネ」と呼ばれた別の人です。父ザカリヤと母エリサベツが高齢になってから誕生したその様子は他の福音書には記されておらず、この「ルカの福音書」だけに書かれています。このヨハネは生まれた時、救い主のために「道を備え」(1:76)ると預言され、その通りにヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」(3:3)を人々に授けました。その後、領主ヘロデの悪事を恐れず非難したため、牢に入れられていたのです(3:19-20)。

 牢にいるヨハネに弟子たちが報告した「これらのこと」(18節)とは、イエス様がある母親の一人息子を生き返らせ(7:11~17)、百人隊長のしもべの病気を治したこと(7:1~10)などでしょう。それを聞いたヨハネが弟子を送って言わせた疑問がこれです。19節を読みましょう。バプテスマのヨハネは、イエス様こそがおいでになるはずの救い主と信じて、人々に指し示してきたはずなのに、なぜ弟子にこう言わせたのでしょうか?20節を読みましょう。救い主はほかの方かもしれないとヨハネが疑っていることも示唆しているようです。

 なぜ、ヨハネは疑ったのか?様々な理由が昔から言われてきました。例えば「イエス様を救い主と信じて人々に伝えてきたのに、なぜ牢屋から解放されないのか」との不満から疑ったのではないか。でも、ヨハネの性格を考えると彼らしくないとの反論があります。または「イエス様は病気を治すなどしているが、自分が伝えた審判のわざ(3:17)をいつ行なうのか」との困惑から疑ったのではないか。でも、ヨハネは以前イエス様こそ神の子だと確信したはずだ(ヨハネ1:29~34)との反論があります。ヨハネが疑いをもった本当の理由は不明です。が、ヨハネがイエス様について疑い、確証が欲しかったことは事実です。

 イエス様を信じてから疑いをもつことはあります。例えば、「本当に自分は救われたのか?」とか「本当にイエス様は復活したのか?」などです。そんな時、どうしたらよいのでしょう。学生時代に私は疑問や疑いを多くもちました。その頃、1年下の後輩の伊藤敬子さんという人に『信仰と不信仰の間』(小助川次雄著,いのちのことば社,1983年)という本を紹介され、とても助けになりました。その後輩は今、私の妻です。『霊的スランプ』(ロイドジョンズ著,石黒則年訳,聖書図書刊行会,1983年)などの本もそうです。聖書や信仰に関わる本も、疑いや疑問を、理解や信仰を深める機会としてくれるのではないでしょうか。

2.イエス様の答え(ルカの福音書 7章21~23節)

 ヨハネの弟子たちから質問されたころ、イエス様がしておられたことが書かれています。21節を読みましょう。イエス様はヨハネの疑いに対してお答えになります。22~23節を読みましょう。イエス様は「ヨハネよ、どうして疑うのか」とお𠮟りにはなりませんでした。見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えよと言われたのです。そして、「目の見えない者が見、・・・」(22節)という出来事が何を意味するか、考えさせたのです。これらは、「旧約聖書」に「救い主」が来られた時のしるしとして予告されていたことで、ユダヤ人で「旧約聖書」を読んでいればわかったはずなのです。「新改訳2017」の翻訳の『聖書』では22節の脚注に、「救い主」を示す出来事を予告する「旧約聖書」の箇所が書かれています。それは、イザヤ29:18、35:5,6、61:1などです。開いて読んでみましょう。しかも、イエス様はご自分が育った町ナザレの会堂でイザヤ61:1~2を読まれ(ルカ4:18~19)、「今日、この聖書のことばが実現しました」(4:21)と言われ、自分が救い主だと明らかにされました。

 ここまで読んできて「あれ?」と私は思いました。イエス様のお答えは、すでにヨハネの弟子がヨハネに報告していたこと(18節)と同じではないか、と。身体の不自由な人が機能を回復され、ツァラアトと言われた特別な病がきよめられるなど、出来事は彼らの報告と同じなのです。問題はその意味です。イエス様はご自分がしていることの意味を「『旧約聖書』のみことばを思い出し、それに基づいて考えよ」と言われたのではないでしょうか。

 結論は23節です。「つまずく」とは文字通りには「障害物に妨げられる」という意味で、ここでは「信じるべきお方を疑う」という意味です。私は若い頃よりも何かにつまずくことが増えました。思うほど足が上がっていないとか、足元をよく見ていないとか、「こうであるはず」という自分の考えにとらわれている時などに、つまずくことが多いように思います。ジョン・ウェスレーも「さ迷う思い」という説教で、信仰生活のつまずきや妨げについて取り上げました。イエス様が「わたしにつまずかない者は幸い」と言われたのは、私たちのつまずきやすさをご存じだからではないでしょうか。事実、律法学者やパリサイ人はイエス様につまずき、十字架につけたのです。イエス様は高ぶる者、信じようとしない者にとっては「つまずきの石、妨げの岩」(Iペテロ2:7,8)でもあります。自分こそ正しいという高慢ではなく、神様に謙虚に聴こうとするへりくだった者とされたいと願います。

Ⅲ.むすび

 信じてからも私たちは、時に疑いを持つことがあります。信じているからこそ、いろいろと真剣に考え、疑問や疑いをもつのかもしれません。そんな時、どうしたらよいか?疑いを抱え自分だけで考え、誰にも聞かず、イエス様から離れてしまうなら、イエス様につまずくという不幸です。私たちもヨハネのように、イエス様に疑いや疑問をぶつけることができます。あるいは、旅仲間である教会の誰かに話し、共に祈ってイエス様に質問できます。イエス様を、ただイエス様を見上げて旅を続けようではありませんか。疑いとそれへの答えが、旅のいろどりをますます深めるのではないでしょうか。

(記:牧師 小暮智久)