2021年9月5日 礼拝説教「救われたのは何のため?」

聖書: エペソ人への手紙 2章8~10節

Ⅰ.はじめに

 今年度の前半の最後の月に入りました。今年度、礼拝堂に集まって共に礼拝できたのは何日だったでしょうか?4月の1週目から3週目と、6月の最後の週から8月1日までのわずか9日です。4月から8月まで「主の日」は22日ありましたので、集まれたのはその半分以下だったことになります。教会に集まり礼拝できるのは、ふつうのことではなく、貴重な恵みなのだと実感します。私たちはそれぞれの人生でこの先、教会で何回共に礼拝できるのでしょうか。天国で神様を礼拝する、そのリハーサルとして、教会に行ける体力と状況が許す時には、そのチャンスを逃さず捕らえましょう。また、共に礼拝したくても集まれない今、場所は離れていても、同じイエス様を信じて救われ、お互いに同じ神様の家族とされていることを覚えて、お互いのためにお祈りして過ごしましょう。先ほどのみことばから、イエス様の救いとは何か、救われたのは何のためか、共にお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.イエス様の救いとは?(エペソ人への手紙 2章8~9節)

 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです」(8節)とあります。「あなたがたは救われるかも」ではなく、「救われてほしい」でもなく、「あなたがたは…救われたのです」ときっぱり言い切れる、この「救い」と何でしょうか?私たちフリーメソジスト教会は、英国での18世紀のメソジストと呼ばれた人々の改革運動に立ち返ろうとして始まりました。そのメソジストの指導者ジョン・ウェスレーは「説教」でこのみことばを取り上げており、今も日本語訳で読めます。説教題は「聖書における救いの道」でこの教会の図書貸出コーナーにある彼の『説教 53(下)』に収録されています。ウェスレーはその説教で、救いとは、天国へ行くことや死の向こう側のことではないと語っています。確かにイエス様を信じれば天国に迎えられるのですが、ウェスレーは救いとは私たちが死んでからの幸せだけでなく、私たちが今持っている祝福だと強調しているのです。では、救いとは何か?「救い」とは、「義認(神様に義と認められること)」と「聖化(きよめられていくこと)」だとウェスレーは言います。「義認」とは「赦し」と同じ意味で、イエス様が私たちのために十字架で血を流し死なれたことにより準備されたものです。エペソ1:7を読みましょう。「聖化」とは私たちが神様に義とされ罪の赦しを受けた瞬間から始まるものです。「罪の赦し」は神様に対する自分の背きが赦された「関係の変化」であり、「聖化」の始まりは自分が「新しく造られた」という「実質的な変化」、自分自身の変化です。「キリスト・イエスにあって造られた」(10節)はこの変化、聖化の始まりと言えます。

 この「救い」、罪の赦しと聖化の発端は何か?「この恵みのゆえに」(8節)、神様の恵みです。恵みと報酬(報い)はどう違うか?恵みは過分な親切、受ける資格のない者への贈り物です。自発的な好意、愛する意志によるギフトです。この手紙には「恵み」(1:2,6,7,8,2:5,7など)が何度も繰り返し記されています。報酬は仕事や行ないに応じて報われる賃金です。神様に背く罪の人生に応じて報われる報酬(賃金)は身体の死と、神様から切り離される滅びです。が、それを望まない神様が用意してくださったギフトは、神様と結び合わされる永遠のいのち、罪の赦しと聖化なのです(ローマ6:23)。受け取るにはどうしたらよいでしょうか?宅配便ならドアを開けてハンコを押します。神様からの贈り物はどうしたら受け取れるでしょうか?それは「信仰によって」(8節)です。それは「イエス様は十字架で死なれ3日目に復活された救い主だ」と知って同意するだけではなく、「イエス様はこの自分の罪のために死なれ復活された自分の救い主だ」と自分をイエス様に任せ信じ頼る「信仰」によってです。しかも、誰も自分を誇れないように(9節)、この恵みも、それを受け取る信仰も、その両方とも私たちから出たことではなく、神様から与えられる賜物なのです(8節)。

2.救われたのは何のため?(エペソ人への手紙 2章10節)

 イエス様を信じて「救い」を受けたあと、私たちはどのように、何のために過ごしていくのでしょうか?ある人から「イエス様を信じて救われたはずなのに、理想の自分になれず、余計に苦しくなった」というような悩みを聞いたことがあります。「救われたら、罪がなくなる」と誤解していたのかもしれません。実は、「救い」を受け、罪を赦されても、ねたみや陰口や高慢など罪を犯す気質は残っています。ウェスレーも「まとわりつく罪の自覚」について先ほどの説教で述べています(『説教53(下)』,p.256-257)。どうしたらよいでしょうか?自分の無力さの自覚、悔い改め(罪の告白と、向きを変えその罪から離れること)が必要だとウェスレーは語ります。また「理想の自分になれない苦しさ」とは何でしょうか。「クリスチャンらしさ」のイメージがズレていたのかもしれません。10節を読みましょう。イエス様を信じた時に「私たちは神の作品」(10節)として新しく造られました。自分の理想ではなく、作者である神様の意図があるのです。「救い」はゴールではなく新たなスタート、「聖化」の始まりです。しかも、自分のがんばりではなく、神様の恵みによるのです。神様が自分を新しく造られた、その意図に沿うように自分を合わせていく歩みです。

 では、救われたのは何のためでしょうか?お互いにそれぞれ違う個性に、どんな意図や目的が込められた神様の作品として、私たちは新しく造られたのでしょうか?「良い行いをするために・・・造られた」(10節)とあります。救われたのは、このためなのです。しかし、私は「良い行い」という言葉があまり好きでありませんでした。「席をゆずる」「寄付をする」「人命救助」などのような、わかっていてもなかなかできず、行ないよりも行なった人が目立つようなイメージだったからです。しかし、ここでの「良い行い」とは、神様が見て「良い」とされることです。5:15~20を読みましょう。「良い行い」を要約すれば、私たちが個性の違いの中で精一杯、神様を愛することと、身近な人を自分自身のように愛することです(マタイ22:36-39)。しかも、神様は、「その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」(10節)と言われているのは驚きです。神様が私たちに、神様を愛し、人を愛するという「良い行い」を、あらかじめ準備してくださっているのです。行なう自分が目立つのではなく、させてくださる神様が現わされていく歩みを重ねて、私たちは「全き聖化」へと導かれます。それは「全き愛」、罪を排除する愛です。それは「一人の成熟した大人」(4:13)となることです。その後も成長は続き(4:15)、教会の他の人々と組み合わされて共に成長していきます(4:16)。私たちが救われたのはそのためです。神様の家族のひとりとして、所属する教会の他の人々と共に「全き愛」をいただき、神様を愛し、人を愛するという神様の恵みがどれほど豊かであるかを共に経験していくためなのです。

Ⅲ.むすび

 「救い」という恵みの豊かさの中に含まれている「全き聖化」「全き愛」を受けるために私たちにできる「良い行い」として、ウェスレーは「祈り、聖餐を受けること、みことばを聞き、読み、黙想することや、身近な人の身体とたましいの必要に応じる慈愛のわざ」などを挙げています。今朝、聖餐の恵みを覚え、イエス様が十字架で血を流し死んでくださったのが私たちひとりひとりのためであったことを心に刻み、神様があらかじめ備えてくださった「良い行ない」に、神と人への愛に、歩み出しましょう。

(記:牧師 小暮智久)