2021年7月4日 礼拝説教「造り主に愛されて」

聖書: 申命記  31章7~8節

Ⅰ.はじめに

 7月最初の主の日、今年の後半が始まって最初の主の日を迎えました。先ほどお聴きした「主ご自身があなたに先立って進まれる」(申命記31章8節)は今年度の私たちの教会の主題のみことばで、「主よ、導いてください」が主題です。今朝は、神様が私たちに先立って進み、導いてくださるのはなぜか、ということをみことばから思いめぐらしましょう。

Ⅱ.みことば

1.神様は私たちを造られたお方だから(申命記 31章8節)

 今から3420年ほど前、紀元前1400年ごろ、イスラエルの民は西アジアの死海の東側のモアブの地から、ヨルダン川を渡って、神様が与えると約束してくださったカナンの地に入ろうとしていました。民を率いて約束の地に入ろうとしている次の時代のリーダーのヨシュアにとって、今の指導者のモーセが語ったこのことばはどのように響いたでしょうか?「主ご自身があなたに先立って進まれる」(8節)。約40年前、まだ若い時に神様のご命令で約束の地を調査するために他の11人と共に40日間そこへ行ったことはあるものの(民数記13章)、数百万人と言われるイスラエルの民のリーダーとなるヨシュアにとって、神様が先立って進まれることは非常に心強かったのではないでしょうか。

 ヨシュアとイスラエルの民に先立って進まれた神様は、今の私たちに対しても先立って進み、私たちを導いてくださるお方です。神様というお方が、私たちに先立って導いてくださるのは、なぜでしょうか?それは、神様は、私たち人間を造られたお方だからです。創世記2章7節を読みましょう。私たち人間は、神様によって地のちりによって造られました。神様が、人の鼻にいのちの息を吹き込まれ、生きるものとなったのです。神様は永遠の昔から存在しておられ、この世界、宇宙を創造され、私たち人間を造られた創造者なので、作品である私たちに先立って導こうとされるお方なのです。神様に造られ、神様によって生かされている私たちは、先立って進まれる神様に導いていただき日々の生活を過ごすのが自然な姿であって、この神様と無関係に生活するのは不自然ではないでしょうか。

2.神様は私たちを愛しておられるから(申命記 31章8節)

 約束の地に入ろうとしているイスラエルの民の新しいリーダーのヨシュアに、モーセが言ったことは、神様が先立って進まれるということだけではありませんでした。「主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、見捨てない」(8節)と言ったのです。神様は、私たちに先立って進まれるだけでなく、私たちとともにおられるお方、どんな時も私たちと一緒におられるのです。しかも、自分が理解されず、敵に囲まれているように思え、味方が誰もいないように感じたとしても、神様というお方は私たちを見放さず、お見捨てになりません。徹底的に最後まで責任をもって導いてくださるお方です。

 神様というお方が、今の私たちにも先立って進まれるだけでなく、いつも共におられ、私たちを見放さず、見捨てないお方であるのは、なぜでしょうか?それは、神様が私たちを愛しておられるからです。私たちは自分が作ったものを大切にするでしょう。私は小学4年の時、友だちと発泡スチロールで船の模型を作りました。川に浮かべて遊ぶのが楽しく、だんだんボロボロになりましたが、いつまでも手放したくありませんでした。神様は、私たち人間をお造りになられました。神様はお造りになられた作品を、世界にただひとりしかいない私たちひとりひとりという傑作を、いとおしみ、愛しておられます。ですから、神様は私たちといつも共におられ、見放すことも見捨てることもおできになりません。イザヤ43:1~4を読みましょう。神様は私たちをかたち造ったお方、私たちの名を呼ばれ、「あなたは、わたしのもの」と言われます。神様は私たちが水の中を過ぎるような困難な時に共におられ、危険な時にも守ってくださいます。なぜか?神様は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(4節)と言われるからです。

3.神様の導きに従うには(申命記 31章8節)

 これからヨシュアをリーダーとして約束の地に入って行きます。神様が先立って進み、導いてくださいます。しかも、共にいて、見放さず、見捨てないと約束してくださいます。何も心配はないように思えます。しかし、神様の導きに従うことを妨げるものがあります。何でしょうか?それは、40年前もそうでした。神様の導きに私たちが信頼して従うのを妨げるもの、それは恐れです。40年前、ヨシュアが若かった時、約束の地を調査した12人のうち10人は「土地はとてもよいけれど、そこに住んでいる人々は強く、私たちはそこへは行けない」と恐れました(民数記13章)。その結果、荒野を40年さすらったのです。

 今度はそうならないために、先立って進まれる神様の導きに従うにはどうしたらよいでしょうか?「恐れてはならない。おののいてはならない」(8節)とあります。恐れは、神様への不信から来ます。私たちは、神様から離れてしまうと、恐れるのです。恐れないためには、神様から離れず、神様に信頼するいのちが養われている必要があります。

 最初の人アダムとエバが神様に背いて以来、私たちは皆、神様から離れ、神様に信頼するいのちはそこなわれてしまいました。しかし、それでも神様は見放さず、私たちとの本来の関係を回復し、私たちのうちに神様に信頼するいのちを回復するために、救い主イエス様をこの世界に送ってくださったのです。イエス様は、神様に背いた私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、3日目に復活されました。このイエス様を救い主と信じる時、私たちは自分のすべての罪を赦され、自分のうちに神様に信頼して従おうとするいのちが芽生えます。しかし、この新しいいのちは、身体のいのちが食べ物や水がないと弱ってしまうように、栄養が補給されなければ弱ってしまいます。この新しいいのち、神様に信頼するいのちは、『聖書』が言う「永遠のいのち」(ヨハネ3:16,17:3)と重なると思いますが、神様によって毎日、養われる必要があります。この世で、神様から引き離そうとする力や誘惑との戦いや、様々な困難との取り組みで毎日相当に消耗するからです。

 神様に信頼して導きに従うこのいのちを養うものとは何でしょうか?使徒2:42を見ましょう。これは最初の教会の人々が毎日大切にしたものでした。今の私たちに当てはめれば、それは、『聖書』を読むこと、「交わり」をもつこと、「聖餐」を受けること、お祈りをすることなどです。共に集まるのが困難な時代だからこそ、ともに集まる礼拝、工夫して交わりをもつこと、聖餐を受け、お祈りすることなどは、私たちのうちに与えられた神様に信頼してその導きに従ういのちを養われるために、必要不可欠ではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 このあと「聖餐」をいただき、イエス様をお送りくださった神様の愛の深さを味わいます。今週も「主よ、導いてください」と自らをゆだねましょう。

(記:牧師 小暮智久)