2021年3月14日 礼拝説教「日本の私たちとキリスト」

聖書: 使徒の働き 17章 22~34節

Ⅰ.はじめに

 日本では「キリスト教は西洋の宗教だ」と言われることが多いように思います。「牧師さんの給料はアメリカから来るんでしょ?」と言われたことがあります。実際には教会が「謝儀」、感謝を表わすというかたちで牧師に渡しています。また、「キリスト教は外国の宗教だ」と言われることもあります。仏教も外国からですが、そう言われないように思います。私は学生の頃、埼玉県の実家の近くで教会の案内チラシを配っていた時、「この非国民め!」とどなられ驚きました。クリスチャンは日本で100人に1人の割合しかいないと言われ、肩身が狭いようにも感じますが、日本人が作った讃美歌もたくさんあります。今日歌う「ただ信ぜよ」(新聖歌182)、「まぶねの中に」(讃美歌121)、「ああ主のひとみ」(讃美歌243)も、作詞または作詞・作曲の両方が日本人です。そう思って歌詞を味わうと心にしみるかもしれません。日本とイエス様について、『聖書』のことばから思いめぐらしてみましょう。

Ⅱ.みことば

1.アテネの町とキリスト(使徒の働き 17章22~31節)

 先ほど聴いた『聖書』の場面、アテネの町は日本と似ているのではないでしょうか。ここに登場するパウロという人は以前、キリスト教会を迫害していたユダヤ人です。ある日突然、復活されたキリストがパウロに出会い、彼は人々にキリストを伝える伝道者となり、この時、ギリシアのアテネに来たのです。彼はアテネの人々にどう呼びかけたか?22節を見ましょう。「あらゆる点で宗教心にあつい方々だ」と言いました。それは町が「ギリシア神話」の神々の「偶像でいっぱい」(16節)だったからです。日本と似ているように思います。「知られていない神に」という祭壇もありました(23節)。「まだ知らない神があるかも」と考えて作ったのでしょう。パウロはそれをきっかけに『聖書』が示す神様を語ります。

 第1に、神は造り主です。24~25節を読みましょう。神は人が作った宮に住まわれず、人の手で仕えられる必要もありません。火事や水害の時に人が守らなければならない彫像が神と言えましょうか。神は人のいのちの源で、何にも依存せず永遠に生きている方です。

 第2に、神は世界の支配者です。26~27節を読みましょう。私たちには神を求める心があり、求めれば見出せるのです。28節はギリシアの詩人のことばで、人間は神の子孫なのだから、神である方を人間が作った偶像と同じだと考えるべきではないのです(29節)。

 第3に、神は審判者です。30~31節を読みましょう。偶像を神としてきた「無知の時代」はもう見過ごされず、審判の日までに神のもとに立ち返るようにと「悔い改め」(30節)が命じられています。その確証は神が「この方」(31節)、キリスト(救い主)を死者の中から復活させたことです。私たちすべての人の身代わりに十字架で死なれたイエス様が3日目に復活されたことによって、イエス様には全く罪がなく、罪と滅びからの救いが成し遂げられたことが確証されたのでした。これらは、今の私たちにどんな意味をもつでしょうか。

2.日本に住む私たちとキリスト(使徒の働き 17章22~31節)

 様々な神々がまつられたアテネを訪れたパウロさんを、もし日本のこの教会の礼拝にお迎えしたら何を語るだろうかと考えることがあります。洗礼準備クラスで一緒に読む本の最後の方に「日本人の宗教意識」という部分があります。そこには、日本では生きている時はお宮参りや合格祈願など神社に、死んでからは葬式や法事などお寺にお世話になるのが一般的だとあります。また、クリスマスやキリスト教式の結婚式はかなり一般的になってきています。日本では宗教心とは関係なく、年中行事や人生の節目に、それぞれの宗教の都合の良いものを取り入れるということでしょうか。また、仏教や神道とキリスト教との違いも書かれており、無意識のうちに影響を受けていることを整理して、この日本でキリスト者として生きていく備えのために、洗礼の前にそのような学びもしています。

 日本に住む私たちは、「宗教心にあつい」(22節)のでしょうか。「八百万(やおよろず)の神」と言われ、「神々のラッシュアワー」と言われるほど宗教団体が多くあるにも関わらず、様々な調査で日本の全体の約7割の人々が「無宗教だ」と答えていると言われます。なぜでしょうか?その答えの一つとして、まだ、本当の神に出会っておらず、「まことの神」というお方を、意識せずに求めていること(27節)のあらわれだとは言えないでしょうか。この世界を造られ、天地の主(24節)であるお方が神だと、日本の私たちにもわかるはずです。

 先ほどの本には「日本の神々 ご利益一覧表」というのもあります。商売繁盛、五穀豊穣、交通安全、縁結びなどのご利益があると言われる神社の名前があり興味深いです。これらの「ご利益」と言われるものは私たちが生きる上で求める「幸せ」のかたちでしょう。それらを求める人の思いは否定せずに、その前提となる私たちの「いのちと息」そのものを「すべての人に」(25節)与えているのは「神ご自身」(25節)だと『聖書』は語ります。

 「キリストを信じたらどんなご利益があるの?」と聞かれることもあるでしょうか。『聖書』では「ご利益」でなく「恵み」が約束されています。「ご利益」は熱心に拝んだから与えられるなどの「条件付き」ですが、「恵み」は資格のない人に与えられるという「条件なし」です。日本の私たちは「ただより高いものはない」と警戒するかもしれませんが、「条件なし」なのは「神はこの方を死者の中からよみがえらせて」(31節)、キリストの十字架での死と復活により神の側が条件を満たしたからで、安心して受け取ればよいのです。

3.アテネの人々の応答(使徒の働き 17章32~34節)

 語られたことに対して、アテネの人々はどう応答したのでしょうか?32節を見ましょう。あざ笑う人、態度を決めない人など様々でした。34節を見ましょう。裁判官や女性などある人々はイエス様をキリスト(救い主)と信じたのでした。今も様々な応答があります。表面の態度やことばと、その人の本心とは違っている場合もあるかもしれません。

Ⅲ.むすび

 私たちはどう応答するでしょうか?日本では、「仏教を信じる」という言い方と同じように「キリスト教を信じる」という言い方がありますが、『聖書』は「主イエスを信じなさい」(使徒16:31)というように「イエス様というお方を信じなさい」と言います。「イエス様を、キリストを信じる」とはどういうことでしょうか?日本語の「信じる」には「宇宙人を信じる」のように「実在を信じる」とか、「偉い人の教えを信じる」という意味での「信奉する」ということばもあります。イエス様を信じるとは、それらの「信じる」ではなく、イエス様をキリスト(救い主)として信頼し、自分の人生に迎え入れ、自分を預けることです。

 このあと歌う「ああ主のひとみ」(讃美歌243)の作詞者の一人、井置利男さんは昭和20年に復員後、人生の目標を失って精神の放浪を続けていました。1949(昭和24)年ジェイコブ・ディシェーザー宣教師(私に1974年に洗礼を授けてくださった方)の伝道集会でイエス様を信じ、洗礼を受けたものの自己嫌悪に襲われ、暗い気持ちで教会の祈祷会に行く途中、「主は振り向いてペテロを見つめられた」という聖句から詩を書きます。翌年神の召しに応じて入学した神学校の友人と推敲し1951年の讃美歌の懸賞募集に応募したそうです。まなざしを向けお招きになるイエス様に応えようではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)