2020年9月20日 礼拝説教「イエス様に遣わされて」

聖書: ルカの福音書 6章 12~16節

Ⅰ.はじめに

 新しい首相が選ばれ、新しい内閣が発足しました。この国が主の心に沿って歩めるように、指導者の方々のために祈り続けたいと思います。
イエス様というお方は、ただひとりで働かれたのではありませんでした。イエス様は人々とともに過ごし、特にお選びになった人々を通してお働きになりました。 今日は、2017年5月から少しずつお聴きしている「ルカの福音書」の前回、8月16日にお聴きした所の続きから、ともに神様のことばを思いめぐらしましょう。

Ⅱ.みことば

1.イエス様の祈りと使徒(ルカの福音書 6章12~13節)

 イエス様はよくお祈りされました。天の父なる神様とお話しされたのです。特に、この「ルカの福音書」は、イエス様のお祈りの場面を何度も伝えています。イエス様は大切な場面でお祈りされたのでした。それは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられたとき(3:21)、12人の使徒を選ぶ前の今日の場面(6:12)、弟子たちに「わたしをだれだと言いますか」と尋ねる前(9:18)、高い山でお姿が変わられる前(9:29)、最後の晩餐のときペテロの立ち直りのため(22:32)、ゲツセマネの園で捕らえられる直前(22:41)などです。

 今日のところでは、どのように祈られたのでしょうか?「そのころ、イエスは祈るために山へ行き、神に祈りながら夜を明かされた」(12節)。一度だけではないかもしれません。

何度となく山へ行き、神様に祈りながら夜を明かされたのかもしれません。それは、どんなお祈りだったのでしょうか?おそらく、自分の願いを神様に伝えるというよりは、神様の願いを知るためのお祈りだったのではないでしょうか。神様の願いが自分を通して進められるために、どうしたらよいかとお尋ねしお聴きするお祈りだったのではないでしょうか。神様と私たちとの破れてしまった関係が回復し、「神の国」がもたらされるために、どのようにしたらよいか、そのためにともに働く者をどのように選んだらよいか、神様にお聴きするお祈りだったのではないでしょうか。

 私たちもイエス様のように、お祈りすることができます。「天のお父様」と呼びかけ、「あなたのお名前を讃美します」とほめたたえ、あとは自由に何でもお話しし、「イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」と結べばよいのです。むずかしいことはありません。身近な人に話すように、神様にお話しするのがお祈りです。ただ、お願いだけでなく、この時のイエス様のように、神様の願いをお聴きするという「聴くお祈り」を加えると、神様と私たちとの関係はさらに豊かに深められるのではないでしょうか。

 お祈りのあと、イエス様は何をされたか?13節を読みましょう。イエス様のまわりに多く集まっていた弟子たちの中から12人を選び、彼らに「使徒」という名を与えられたのでした。「使徒」とはどういう意味か?「使徒」とは「ある使命のために遣わされた人」という意味です。遣わす方が大切であり、この場合はイエス様で、イエス様から与えられた使命を果たす人というのが「使徒」です。

 イエス様を信じる人は、今のこの時代にイエス様に遣わされて生かされています。イエス様から与えられた使命を果たすために遣わされているお互いであることを覚えましょう。

2.12人の使徒たち(ルカの福音書 6章14~16節)

 イエス様が選ばれた人たちは、どのような人々でしょうか。14~16節に名前が挙げられています。一言で言えば、ごくふつうの人々です。特別な教育を受けたわけではありません。シモンとその兄弟アンデレ、ヤコブ、ヨハネ(14節)という4人はガリラヤ湖で魚をとる漁師たちです。天候や気温などに左右される仕事をする素朴な人々と言えるでしょう。

 また、彼らは、様々な違いのある人々です。15節の最初に名がある「マタイ」は取税人でした。取税人とは、そのころユダヤの地方を支配していたローマ帝国に納める税金を集める人で、ローマ帝国の手先だと見下されたり、嫌われたりしていました。一方、15節の最後に名がある「シモン」という人は「熱心党員」と呼ばれていました。熱心党とは、ユダヤの国がローマ帝国から独立するためには武力行使も辞さないという過激な考えをもつ人々だったようです。こう考えると、かつてローマ帝国の手先と言われる取税人だったマタイと、ローマ帝国からの独立を勝ち取ろうとする熱心党員のシモンとは、考え方や立場が正反対だったと言えるでしょう。

 また、このあとあまり名前が出てこない人々もいます。バルトロマイ、ヤコブの子ユダ(マタイとマルコ福音書ではタダイという人、おそらく同一人物の別名)などがそうです。

 イエス様は、すべての人をご自分のもとに招いておられます。そして、招きに応じてイエス様を信じ、神様の子どもとされ、神様の家族のひとりとされた私たちお互いは、今も実にさまざまな背景の違いがあり、性格もそれぞれに違っているのではないでしょうか。12人の使徒たちの姿は、今の教会の姿とよく似ています。イエス様は、ごくふつうの人々、しかもそれぞれに違っている人々を、ご自分の使命の果たすためにお用いになります。

 さて、12人の最後に「イスカリオテのユダ」(16節)の名があります。イスカリオテとは地名に関係があるようで、「ケリヨテの人」という意味のようです。「このユダが裏切る者となった」という言葉はショッキングです。また、「イエス様は、このユダが裏切ることを知っていて使徒に選ばれたのだろうか」という疑問もわいてきます。しかし、このことは、イエス様に「使徒」と選ばれた人は、自分の意志と関係なく自動的にイエス様に従うわけではないということを、私たちに印象付けるのではないでしょうか。イエス様が「使徒」として選んだ人でも、あくまでも自分の意志でイエス様に従うのだということを意味しています。裏切ることもあり得るのです。イエス様が十字架につけられるために捕らえられた時、使徒たちはみなイエス様を見捨てて逃げました(マルコ14:50)。その意味ではみなが裏切り者とも言えます。 

 そのような弱さを持つ者、失敗するかもしれない者をもイエス様は「使徒」として選んでくださいました。今もイエス様は、弱さやつまづく可能性もご存知の上で、私たちが自由な意志でイエス様について行けるように招いてくださり、支えてくださいます。

Ⅲ.むすび

 イエス様はつねに真実を尽くして私たちを愛し、私たちのために十字架で死んでくださいました。3日目に復活し、今も生きておられます。このお方の招きを聞きましょう。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:23)。イエス様について行くには、自分の思いを脇に置き、日々自分の十字架を負うように、日々イエス様に自分を合わせて従う必要があります。今週、イエス様に遣わされたその場で、イエス様に従って歩みましょう。

(記:牧師 小暮智久)