2020年8月9日 礼拝説教「何をどう聞くか」

聖書: マタイの福音書 13章1~9節

Ⅰ.はじめに

今日は75年前の長崎に、原子爆弾が落とされた日です。多くの人が亡くなりました。75年も前のことなのに、今も放射能の被害で苦しみつづけている人が多くいます。その長崎の原子爆弾と同じ形、同じ重さの模擬原爆が東住吉区の田辺に落とされたのは75年前の7月26日。原爆を落とすための米軍の訓練だったそうです。先週の8月6日は広島に原爆が落とされた日、今週土曜日は75年目の敗戦記念日です。同じ苦しみをくり返さないために、これらのことを忘れずに語り伝えていく必要があるのではないでしょうか。

日曜朝の「教会学校」では今、「聖書」という単元です。「聖書」は神のことばです。この単元では、1.書かれた神のことば、2.神のことばの目的、と学んできて、今日はその最後、「神のことばを聞く」というテーマです。「聞く」とはどういうことでしょうか?ただ音やことばが聞こえてくるというだけでしょうか。得しそうなものや大切だと思えるものがテレビなどでたくさん宣伝されている今、私たちは何をどう聞くのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.種をまく人と4つの場所(マタイの福音書 13章1~9節)

 今から約2000年前、西アジアのガリラヤ地方で、イエス様は集まって来た大勢の人々に「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた」とたとえで話し始められます(1~3節)。

 朝顔やひまわりの種をまいたことがありますか?どんな所にまきますか?やわらかい土の所にまくと思います。ところが、2000年前のこの地方の種蒔きはばらまくように蒔く方法だったそうです。すると種はいろいろな所に落ちますね。イエス様はこう話されました。

 ある種は道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまい、芽も出ませんでした(4節)。

 ある種は土のうすい岩のある所に落ちました。すぐに芽が出ましたが、根が伸びず枯れてしまいました(5~6節)

 ある種はいばらの間に落ちました。芽が出てもいばらが伸びふさいでしまいました(7節)。

 ある種は良い地に落ちました。芽も根もよく育ち、実を結びました。ある種は100倍、ある種は60倍、ある種は30倍の実を結んだのです(8節)。

 種をまいて、その結果がこんなにも違ったのはなぜでしょうか?種は同じでした。ただ、種が落ちた場所の状態が違ったので、そのあとの結果がこんなにも違ったのです。

2.たとえで話すのはなぜ?(マタイの福音書 13章10~17節)

 イエス様がたとえで人々にお話になるのはなぜでしょうか?弟子たちもそのことを質問しました(10節)。イエス様の答えは、本当に聞こうとする人に「神の国」の大切なことを伝えるためであり、聞こうとしない人もいるからということではないでしょうか(11-13節)。

 そして、このことによって、「旧約聖書」の時代の預言者イザヤが告げたことが実現したのだとイエス様は言われます(14~15節)。これは、神様のことばを聞こうとしない人々に対する神様の厳しいさばきのことばです。

 今の私たちはどうでしょうか?「神の国」を見たいと願っているでしょうか?「神の国」についてのことばを聞きたいと願っているでしょうか?心から願うなら、それを見ることができ、聞くことができる恵みの時代に今の私たちは生かされています(16~17節)。この恵みをむだにしてはなりません。みことばを聞ける恵みを生かして用いましょう。

3.種をまく人のたとえの意味(マタイの福音書 13章18~23節)

 イエス様は、種を蒔く人のたとえの意味を、弟子たちに話してくださいました。「種」とは何でしょうか?それは「御国のことば」(19節)です。「御国」とは「神の国」、「天国」のことで、神様が愛によって支配される場所のことです。「神の国」、「天国」についてのことばは、すべての人に届くにようにと、当時の種蒔きのようにばらまかれるのです。

 「道ばた」に蒔かれたとは、「御国のことばを聞いて悟らない」人のことだとイエス様は言われました(19節)。「聖書」のことばが音として聞こえても、文字として見えても、自分のこととして受け取らない人と言えるでしょうか。悪魔がみことばを奪ってしまいます。

 「岩地」に蒔かれたとは、「聖書」のことばを聞くとすぐに喜んで受け入れるが、何かつらいことが起こると「神様なんていないのかな」と信じるのをやめてしまう人です(20~21節)。「自分の中に根がない」のが原因で、信じ続けるにはみことばの根拠が大切です。

 「いばらの中」に蒔かれたとは、みことばを聞きますが、この世の思い煩いや豊かな生活への誘惑がみことばをふさいでしまい、実を結ばない人のことです(22節)。「ゲームをしたいから教会は休んじゃおう」とか「今日は忙しいから礼拝は来週にしよう」と神様よりもほかのものを大切にして、いつの間にか神様を忘れてしまう人も含まれるでしょう。

 「良い地」に蒔かれたとは、みことばを聞いて、自分へのことばとして受け取る人です。「神の国」のことばは、その人のうちで根を伸ばし、芽を出して成長し、実を結びます。「あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の実を結びます」(23節)とイエス様は言われました。私ははじめて読んだ時、なぜ、100、60、30と減っていくのかなと思いました。「マルコの福音書」では「30倍、60倍、100倍」(4:8,20)、「ルカの福音書」では「100倍」(8:8)となっていて、強調点の違いがあるようです。イエス様は「人それぞれで実の結び方に違いがあり、違っていていいんだよ」と言われているのではないでしょうか。では、「実」とは何か?その人によってイエス様を信じ救われる人のことでしょうか。それとも、「聖書」が「御霊の実」(ガラテヤ5:22,23)と呼ぶ、その人の生活や身近な人とのあり方でしょうか。いずれにせよ、みことばをどう聞くかで、「神の国」がその人のうちでどうなるかが違ってくるということを、イエス様は一番言いたいのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 いろいろなニュースが飛び交う毎日に、私たちはまず、「神の国」「天国」のことばを、自分へのことばとして受け入れる「良い地」とされて聞く者とされましょう。私の場合、はじめて聞いた「天国」のことば、神のことばは、ヨハネ3:16でした。「神の国」「天国」は、「聖書」のことばによって人々に種のように蒔かれ、芽が出て、育っていきます。「週報」にある「聖書」の箇所を今週も読みましょう。         

(記:牧師 小暮智久)