2023年1月8日 礼拝説教 「神様の恵みにこたえて」

聖書: マタイの福音書 2章1~12節

Ⅰ.はじめに

 新しい年をどのように迎えられたでしょうか?先週1月6日(金)は、キリスト教会の暦では「公現日」と言って、東からの博士たちがイエス様を礼拝したことを覚える日でした。イエス様がご自分を、地元のユダヤ人以外の人々に、「公」的に「現」わされた「日」なので「公現日」と言います。今日は、その「公現日」の次の日曜日、「主の日」ですので、神様からの恵みを無にせずに生かして、イエス様を礼拝した人々の姿をともに見ましょう。

Ⅱ.みことば

1.東の国からの礼拝者(マタイの福音書 2章1~2節)

 その人々がやって来たのはいつでしょうか?1節を読みましょう。「ヘロデ王の時代」とは、紀元前37年~紀元前4年です。その時代にイエス様は、ユダヤの都エルサレムの南8kmにあるベツレヘムという町でお生まれになりました。西暦の数え方は、イエス様の誕生の年を元年としていますが、数年の誤差があるようです。イエス様が生まれたのは紀元前6年~紀元前4年頃と言われ、その人々は東の方から、おそらく当時のバビロニアの方、今のイラクあたりと思われますので、1000km以上も遠くからやって来たのでした。

 この「博士たち」(1節)とは何者なのでしょうか?2節を読みましょう。「星が昇るのを見たので」(2節)とあることから、彼らは星の研究者ではないかとか、星占いをする人々ではないかとも言われます。いずれにせよ神様に選ばれたユダヤ人ではなく、神様からは遠く離れていると当時思われていた異邦人です。その彼らが「礼拝するために来ました」(2節)と言うのは実に不思議、不可解です。「なぜ、東の国からユダヤの王様を礼拝するために、わざわざ来たの?」と聞きたくなります。そもそも、「王様を礼拝する」という言い方も特別な感じがします。彼らは「ユダヤ人の王として生まれるお方はキリスト(救い主)だ」と知っていたようです。一つの推測は、紀元前6世紀にユダヤ人が東のバビロニアに捕虜とされた時、その地の人々がユダヤ人からキリスト誕生についての『聖書』の預言を聞き、それが600年近くも代々伝えられてこの博士たちにも伝わったのではないかということ。そう考えると、ユダヤ人がバビロンに捕囚となったことで、ユダヤ人以外の異邦人が『聖書』に関心をもち、何百年もたって「キリストを礼拝するために来ました」と博士たちがやって来たというのは実に興味深いことではないでしょうか。彼らは、特別な星によって示された神様の恵みを無にせず、神様からの恵みを生かして、神様の働きかけにこたえて、新しい王キリストを礼拝しようと、遠い東の国から旅立ったのです。

2.神様からの恵みを生かさない人々(マタイの福音書 2章3~8節)

 キリストを礼拝する点で、東からの博士よりも立場が有利な人々がいました。それを「神様からの恵み」と呼ぶならば、それを生かさなかった人々です。

 第1は、ヘロデ王です。彼にはローマ皇帝からユダヤ地方の統治を任された権力がありました。首都ローマから見れば、中央から遠く離れた地方でしたが、実はキリストの誕生が約束された地だったのです。その恵みを生かせば、ユダヤ地方は真の意味で豊かになったことでしょう。しかし、ヘロデは自分の地位と生活を守るために新しい王の誕生の知らせに動揺し、礼拝に行くどころか殺そうと考え、恵みを生かさなかったのでした(3,7,8節)。

 第2は、エルサレムの人々です。この人々への神様からの恵みは言うまでもなく、その近さ、キリストが生まれる地元であったことです。行こうと思えば、すぐに礼拝できました。しかし、彼らはその神様からの恵みを生かさなかったのです(3節)。

 第3は、祭司長や律法学者たちです。彼らに与えられていた神様からの恵みは、『聖書』を読めて、神様の約束を知っていたことです。彼らはキリストがどこで生まれるかを知っており、ヘロデ王の質問にすぐに答えることができました(4~6節)。しかし、彼らはキリストが生まれたと知っても、礼拝に行こうとせず、神様からの恵みを生かしませんでした。

 今の私たちそれぞれに与えられている「神様からの恵み」とは何でしょうか?『聖書』を読めることや祈れることでしょうか。自由に使える時間やいろいろな人とのつながりでしょうか。年齢や健康状態と共に変化もあるかもしれません。それらの神様からの恵みを、キリストと親しくされ、身近な人と一緒に礼拝するために生かせるようにと願います。

 また、この教会に与えられている「神様からの恵み」とは何でしょうか?それらの神様からの恵みを、神様のために、この近隣地域の人々のために生かせるようにと願います。

3.神様の恵みを生かした人々(マタイの福音書 2章9~12節)

 それは、東の方からはるばる旅をして来た博士たちです。自分たちを先導する特別な「星」、ベツレヘムだと教えられたその情報源の『聖書』のことばを信じ、与えられた「神様の恵み」を生かしてベツレヘムへとやって来ます。10節を読みましょう。「その星」を見た彼らの大きな喜びとは、「星」がそこにとどまったからでしょう。「ここだ。キリストと呼ばれるユダヤの王は、この家におられるのだ」と感慨無量だったのではないでしょうか。

 それから彼らはどうしたか?11節を見ましょう。「家に入り」。この時は生後2年近く過ぎ、飼い葉おけのある場所ではなく、家に移っていたようです。「幼子を見、ひれ伏して礼拝した」。大のおとなが、しかも博士が、幼子の前にひたいをつけるようにして低くなり、礼拝したのです。そして彼らがささげたのは、黄金、乳香、没薬。これらは彼らの国でとれた価値ある物でした。すなわち、彼らの国ならではの「神様からの恵み」を、彼らはキリストにささげ、ささげることによってその「恵み」を生かして用いたのです。「黄金」は王に、「乳香」は神に、「没薬」は死者に用いられる物で、キリストが王であり、神であり、十字架で死なれることを象徴すると言われますが、彼らがささげた自分の国の価値ある物が意図せずしてそのような意味をもつささげ物となったのかもしれません。

Ⅲ.むすび   

 私たちが何かを神様にささげるとき、そのささげるもの自体も神様から与えられた恵みなのです。あなたに与えられている「神様からの恵み」とは何でしょうか?私たちのこの教会に与えられている「神様からの恵み」とは何でしょうか?この年、その神様からの恵みを無にせず、生かして用いるお互いとされましょう。私たちのためにひとり子イエス様をお与えくださり、イエス様が私たちのために十字架で血を流し、ご自身をささげてくださったことにあらわされている「神様の恵み」にこたえ、私たちそれぞれに与えられている「神様からの恵み」を主にささげて、生かして用いる1年とさせていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)