2022年12月18日 礼拝説教 「引き受ける勇気」

聖書: マタイの福音書 1章 18~25節

Ⅰ.はじめに

 思いがけないことが起こる時があります。そのような中で、どのように過ごしたらよいのでしょうか?先週11日(日)の夜、抗原検査のキットにより、私自身が思いがけずコロナ陽性の判定が出ました。今日の今に至るまで、熱はまったくなく、のどの痛みも全くありません。同居の妻と息子は熱とのどの痛みがあり、18日(日)に礼拝堂にみなが集まるには不安要素がありましたので、今日は残念ながら、教会に集まることをやめ、配信のみの礼拝としています。今日、12月18日はアドヴェント、待降節の4番目の主日、ローソクの4本目に火がともる日曜日です。通常の年ならば、今日がクリスマス礼拝の日曜日となりますが、今年は来週25日がクリスマスの日曜日なので、5本目の真ん中のローソクに火をともすことになります。したがって、今年は待降節をゆっくりじっくり丸々4週間過ごしてから、クリスマスの日曜日を迎えるという日のめぐりとなっています。

 お互いに思いがけないことが起こる日々ですが、ヨセフという人に思いを向けましょう。

Ⅱ.みことば

1.信じていたのに(マタイの福音書  1章18節)

 「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1節)から始まる『新約聖書』の最初の書物「マタイの福音書」は、イエス・キリストというお方がイスラエル民族の先祖アブラハムの正統な子孫であり、正真正銘ダビデ王の子孫であることをはっきりと示しています。1~17節の「系図」はカタカナの羅列と見れば退屈極まりないですが、天地創造からアブラハムの選び、イスラエル民族と王国の歴史を記す『旧約聖書』を読んだ人にとっては、『旧約聖書』と『新約聖書』の橋渡しをする部分として非常に興味深いものです。

 「イエス・キリストの誕生は次のようであった」(18節)と、キリストの誕生の描写が始まります。「母マリアはヨセフと婚約していた」(18節)と、婚約中なのにマリアが「母」と言われていることには違和感があります。当時のローマ帝国内のユダヤ地方での「婚約」は、法律上の夫婦となることでした。婚約期間はふつう1年ほどで、婚約を解消するには離婚の手続きが必要だったそうです。しかし、実際に二人が一緒に生活し、性交渉が許されるのは結婚してからで、「二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によってみごもっていることがわかった」(18節)というのはマリアにもヨセフにも異常事態だったのです。

 この思いがけないことを、ヨセフはどう思ったのでしょうか?現代であれば「授かり婚」というきれいな表現でごまかすこともあるでしょうが、結婚前の妊娠は『聖書』では許されません。ヨセフ自身に覚えがなければ、マリアは自分を裏切り、ほかの男と関係を持ったのかと疑ったかもしれません。ヨセフにしてみれば、思いがけないことに驚いただけでなく、婚約者を信じていたのに裏切られたのかと悲しんだのではないでしょうか。

2.正しすぎてはならない(マタイの福音書 1章19~23節)

 この時のヨセフの前には、少なくとも2つの道がありました。1つは、正式な「婚約破棄」という道です。婚約者マリアが自分を裏切ったと決めつけ、姦淫の罪で離婚の手続きをとるということになります。その場合、マリアとその相手の男は石打ちによる死刑というのが当時のユダヤの定めでした。もう1つの道は、ひそかに離縁するという道です。これも当時としては離婚の手続きをとることになりますが、言わば内密にマリアを去らせるために、マリアの落ち度でなく自分の側の落ち度ということにして婚約を解消するということでしょうか。「夫のヨセフは正しい人で」(19節)とあります。ヨセフに「夫」と書かれているのは当時の婚約が法律上は夫婦であったからで、「正しい人」とは、『旧約聖書』の律法を知るだけでなく従う人という意味でしょう。

 キリストという救い主の誕生をめぐっては、一組の婚約者の危機があり、場合によってはマリアとそのお腹の子のいのちの危機があるという状況の中で、カギを握っていたのはやはり、ヨセフでした。「彼がこのことを思い巡らしていたところ」(20節)とあります。ヨセフは2つの道のどちらかを即決しませんでした。思い巡らしていたのです。時間をかけていたのです。第3の道があるかもしれないと考えたかもしれません。その意味でヨセフは正しい人でしたが、正しすぎる人ではありませんでした。『聖書』に「あなたは正しすぎてはならない」(伝道者の書7:16)とあります。私たちは、正しすぎてはなりません。神様より正しくあってはならないのです。それが、神様の介入を受ける道ではないでしょうか。20~21節をお読みします。ヨセフの夢に現れた主の使いは、マリアを妻として迎えることと、生まれる男の子の名をイエスとつけることを命じました。ヨセフが自分の正しさにこだわったならば、主の使いの御告げを受け入れる余地はなかったでしょう。

 22~23節は、18節の1行目と同じ性質の文章だと考えられます。つまり、ヨセフや主の使いのことばではなく、この「福音書」の記者であるマタイの説明文として読むのが文脈に沿っていると思います。「このすべての出来事」(22節)とは、一組の婚約者に危機をもたらした「聖霊によるみごもり」のことです。それは、たまたま起きた偶然ではなく、マリアの裏切りなど人のあやまちによるのでもなく、「主が預言者を通して語られたことが成就するため」であり、この思いがけない出来事が示すものは、「その名はインマヌエル、神が私たちとともにおられる」という現実そのものだと、今も語っているのです。

3.自分を変える勇気(マタイの福音書 1章24~25節)

 ヨセフは眠る前、この思いがけないことの中で婚約者をさらし者にせず、密かに離縁しようと考えていました。しかし、「眠りから覚めると」(24節)、ヨセフは自分の考えを変更するのです。一言で言えば、「主の使いが命じたとおりに」(24節)したのであり、神様の介入を全面的に受け入れたのでした。具体的は、ヨセフはマリアを妻に迎え入れ、生まれた子をイエスとつけたのです(25節)。名づけは、父として子と認めたことを意味します。

 ヨセフにとって、マリアの思いがけない妊娠という出来事に何か変化はあったでしょうか。何も変わっていません。自分たちには「聖霊による」と知らされましたが、人々は「まだ婚約中なのに」と責めたかもしれません。しかし、自分を正しすぎないようにし、自分よりも神様を正しいとし、人々から非難されてもよいという勇気がヨセフを変えたのです。このヨセフのもとで、キリストは正統なダビデの子孫、ヨセフの子として生まれたのです。

Ⅲ.むすび

 私たちの救い主イエス様をお送りくださるために働かれた万軍の主の熱心(イザヤ9:7)に支えられ、正しすぎて主を拒むことなく、思いがけないことを引き受ける勇気をヨセフと共に与えられて、今週も主とともに歩ませていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)