2022年10月30日 礼拝説教 「信徒の交わり」

聖書: 使徒の働き 2章42節

Ⅰ.はじめに

 先週の主日礼拝式では、息子の主歩(かずほ)が勧士として初めて奨励の奉仕をし、感慨深く思いました。皆さんのお祈りのおかげというのはもちろんですが、26歳という息子の年齢は私が伝道師となり初めてこの教会に任命され、説教をした年齢なのです。関東の所沢グレース教会で洗礼を受け、関西と関わりのない私を受け入れてくださり、宇崎竹三郎名誉牧師、相澤 寛(ゆたか)主任牧師のもと、伝道師としてここで初めて説教をしたのが1989年で今から33年前。26+33=59で私は今59歳ですから計算が合います。その後、1991年に大阪日本橋教会に転任して3年間奉仕し、1994年に再び、今度は牧師一人体制でここに任命されたのが31歳の時。26にしても31にしても本当に若く未熟だったことを思い、配慮の行き届かない者のために忍耐して祈り支えてくださったことを感謝します。

 この教会の今年度の総主題は「主に喜ばれる教会」です。イエス様を信じて教会のメンバーとされて大切なのは、『聖書』を読むこと、お祈り、礼拝、聖餐、献金、証しや伝道などだと言われます。以前こう言われた方があります。「礼拝やお祈りや伝道はよくわかるのですが、『交わり』というものが私にはわからないのです」。「主に喜ばれる教会」として私たちが過ごすために、「交わり」とは、なぜ必要なのでしょうか?みことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.交わりは、なぜ必要か?(使徒の働き 2章42節)

 イエス様を信じて洗礼を受けた人々で始まった最初の教会が「いつも」行なっていた4つのことの中に「交わり」(使徒2:42)があります。「交わり」は教会で大切だったのです。

 一般的な意味での「交わり」、人との関係というのは、なぜ必要なのでしょうか?今から800年ほど前の神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世という王様が「人間は誰からも話しかけられなかったらどんなことばを話すのか」ということを調べようと、当時多かった親に捨てられた赤ちゃん50人を集め、世話をする修道士たちにマスクをさせて、目を合わせず、話しかけず、ミルクをあげ、おむつを替えるなどの最低限の世話だけをさせたのだそうです。王様は「赤ちゃんたちは、『聖書』が最初に書かれたことば(ヘブル語)を話すようになるのではないか」と予想しますが、1歳になる前に50人みんなが死ぬという衝撃的な結果に終わったのでした。非人道的な実験として非難されるべきとも言われますが、同時に、私たち人間は食べ物や衣服や住む場所など生きるのに必要な「物質」「もの」だけでは生きられないことを示しているとも言われます。ほほえみ、話しかけ、ふれあいなど、私たち人間は、同じ人間のだれかとの「交わり」や「関係」なしには生きられないのではないでしょうか。なぜ、そうなのかと言えば、「そのように造られているから」としか答えられないように思えます。イエス様が「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)と言われたのもうなずけるのではないでしょうか。

2.信徒の交わりとは?(使徒の働き 2章42節)

 世界最初の教会で「使徒たちの教え」(42節)を守ること(『聖書』を読み、行なうこと)や「パンを裂」(42節)くこと(聖餐を受けること)や「祈り」(42節)と並んで、「彼らはいつも、…交わりを持ち」(42節)と言われ、大切にされていた「交わり」とは何でしょうか?

 「交わり」というと様々な意味を思い浮かべるでしょうが、『聖書』のここでの「交わり」ということばの意味は「共有すること」「分け合うこと」です。たとえば、時間の共有ということでは、一緒にいること、時間をともにすること、「集まる」ということです(46節)。今の私たちが「礼拝」に出席することや、オンラインで「礼拝」に参加することも「交わり」の一つでしょう。また、物を共有し分け合うこと(44~45節)、情報や知識を分け合い共有するのも「交わり」でしょう。「礼拝」の前後に、先週の出来事やお得なお店の情報を誰かに話したり、誰かの悩みを聞かせてもらったりするのも「交わり」の一つです。その時の自分の気持ちを話すとか、誰かの「うれしい」や「つらい」などの感情を聞かせてもらうこともあるでしょう。気持ちを語り合えるのは、深い「交わり」ではないでしょうか。

 イエス様を信じている人のお互いという意味での「信徒の交わり」の特色は何か?第2次大戦中、ナチス・ドイツに抵抗し、処刑された牧師のボンヘッファーはその著『共に生きる生活』の中で「キリスト者の交わりは、イエス・キリストを通しての、またイエス・キリストにある交わりである」(p.8)と述べました。これは、Ⅰヨハネ1:3やヨハネ14:23のみことばに基づいていると思います。「通しての」では、他の信徒と自分との間にイエス様がおられてつないでくださっていることが意味され、「にある」では、自分も他の信徒も、それぞれがイエス様とつながっている時に真実な交わりがもてることが意味されています。

 父・御子・聖霊の三位一体の神様は、三者の間で親しい交わりを永遠に持ち続けておられ、私たちもイエス様を信じたことでその交わりの中に招き入れられたのです。それは「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって ともに生きるということは。」(詩編133:1)と言われているような、楽しく、幸せな交わりです。

3.交わりをもつには?(使徒の働き 2章42節)

 今の私たちは、どのようにして「交わり」を持ち、深めていったらよいでしょうか?むずかしいことは必要ありません。「礼拝」に出席できる人は、これからも続けて出席すること、それに加えて近くの席の人にあいさつするとか、今まで話したことのない人に話しかけてみてはどうでしょうか。話し上手より、聞き上手を目指し、「へー、そう」などの相づちを心がけましょう。オンラインで「礼拝」に参加している人は、加えて誰かに電話をしてみたり、ハガキを書いたり、それらを家族の人に頼んでもよいのではないでしょうか。

 私たちフリーメソジスト教会の源流である18世紀の英国のメソジスト運動、その指導者ジョン・ウェスレーは、「みことば」「祈り」「聖餐」とともに「交わり」を大切にし強調しました。「組会」はその表われです。初代教会の姿に戻ろうとしたのです。その意味で「交わり」は私たちが、「してもしなくてもよい」という「選択科目」ではなく「必修科目」です。ボンヘッファーは言いました。「キリスト者の兄弟(姉妹)の交わりは、日ごとに奪い去られるかも知れない神の国の恵みの賜物・・・であることがとかく忘れられがちである」(前掲書,p.7)。会えるのは、集まれるのは、今日が最後かもしれない。その感覚を意識し、「礼拝」だけで帰るのはもったいないと感じたら、昼食を共にし、何気ない会話から、祈ってほしいことや『聖書』のわからないことや先週の恵みの経験などを、お互いに分かち合うクリスチャンならではの「交わり」を持てるとよいのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび    

 人間関係は苦手という人もおられます。私もその一人です。「信徒の交わり」の中にも問題はあり得ます。「交わり」の中で傷つき、つまずくこともあります。お互いのことばの使い方や言い方、受け止め方や考え方、性格の違いなどがあるからでしょう。しかし、自分がいやされ、新たな気づきや成熟への変化が与えられるのも「交わり」の中でではないでしょうか。私たち「信徒の交わり」のお互いの間にキリストがおられ、お互いの痛みやつらさや課題などをキリストにあって分かち合えるように切に願います。

(記:牧師 小暮智久)