2022年10月2日 礼拝説教 「神とともに歩む」

聖書: ミカ書 6章6~8節

Ⅰ.はじめに

 先週、3年ぶりに開かれた「牧会者と霊性セミナー」に参加しました。場所は岡山県の蒜山バイブルキャンプ場で、牧師や牧師夫人が15名ほど参加し、日曜夜から3泊4日を過ごしました。ゆったりとしたプログラムで、自分の今年9か月間のふり返りやみことばの黙想やその分かち合いをし、様々な恵みをいただきました。お祈りを感謝します。月曜午前は自由な時間でした。特に予定はなく、前からの友人に山登りに誘われました。どうしようかなと思いましたが、数年前に登った山に行こうと、登山口まで車を走らせました。登り始めるとその人のペースが早いのです。普段の私は一人での登山が多く、「ともに歩むとは違いを知ることだ」とか考えつつ、その人のうしろを登って行きました。樹林帯を抜け周囲が開け、尾根道に出ると蒜山高原や鳥取の大山(だいせん)など広大な景色が広がり、45分ほどで頂上へ。1010mという標識があり意外と高い頂上までよくがんばったなあと腰をおろしたのです。下りは30分ほどでちょうど午前中の間にバイブルキャンプ場へ戻ることができ、ちょうどよい登山で、「誘ってくれてありがとう」とお礼を言ったのでした。

 この教会の今年度の総主題は「主に喜ばれる教会」です。さきほど読まれた神様のみことばから、神様に喜ばれることとは何か、ともにお聴きしましょう。

Ⅱ.みことば

1.神は何を喜ばれるか?(ミカ書 6章6~7節)

 今日開いた「ミカ書」とは、ミカという人が神様から預かったことばが記されている預言書です。時は紀元前700頃、所は西アジアのユダという国です。紀元前1000年頃からイスラエルは、サウル、ダビデ、ソロモンという王国時代を迎え、とても繁栄しますが、その後、北と南に分裂してしまいます。ミカはその南のユダ王国の人で、よく知られているのは救い主がベツレヘムで生まれるという預言(5:2)で、クリスマスによく読まれます。

 ミカに託された神様のことばの多くは、人々の罪の指摘とさばきの宣告です。神様は人々に真実を尽くされたのに、人々はその恩を仇で返したのでした。しかも、人々は自分の姿に気づかず、自分の正しさを主張しました。その様子が6~7節にあります。6節をお読みします。「何をもって、・・・神の前にひれ伏そうか」とは、当時の人が自分の罪は棚に上げて、「神は何を喜ばれるだろうか」と考えている様子です。「何をもって」とは、「自分の何かをささげれば神は喜ばれるはずだ」という、自分を中心に据え、自分を基準として、どんな犠牲を払うことを神は喜ばれるだろうかと考えている態度ではないでしょうか。

 ささげ物の最初の候補は、みことばにも書かれている(レビ9:3)1歳の子牛です(6節)。次に候補は多くの羊、大量の油です(7節)。量で勝負ということでしょうか。そもそも、ささげ物は「勝負」の問題ではないのですが、このあたりから考え方はさらに歪んでいきます。「私の長子」「胎の実」(7節)というのは自分の子どもです。当時、異教の礼拝では、子どもを火で焼いてささげました。しかし、みことばはそれを禁じていたのです(レビ18:21,申命記12:31)。日本でも人柱とか人身御供(ひとみごくう)と呼ばれる犠牲はあったようです。それこそが、神への最大の犠牲だと考えられ、ユダの人々も子どもを焼いて異教の神々にささげたのでした(Ⅱ列王16:3,21:6)。自己中心や自己正当化を突き詰めると殺人に至るという現実は昔も今も変わらないのではないでしょうか。いわゆる旧統一協会における多額の献金の問題も、心のやましさを自分の犠牲の大きさで消せるかのように偽り私腹を肥やす団体の自己中心性の現われなのでしょう。今の私たちも、「神は何を喜ばれるか」を問う前に、「神は今の自分を見て、どう思っているか」が問われているのではないでしょうか。

2.神とともに歩むには?(ミカ書 6章8節)

 最初にも話したように、誰かとともに歩むには、その人のペースを知る必要があります。神とともに歩むには、神様の考え、神様の求めを知る必要があるのではないでしょうか。8節をお読みします。私たちが神様の求めを推測しても見当違いかもしれません。一番確かなのは、神様がご自分の求めを語ってくださることです。「主はあなたに告げられた」(8節)。そうです。主は『聖書』を通して、あなたに語ってくださっています。

 神様が私たちひとりひとりに求めておられることは何か?まず、「公正を行い」(8節)とあります。公正の反対は、不正とか不公平でしょう。法律に違反するか否かはともかく、不正をしたことのない人って、自分を含めて世の中にいるのでしょうか。しかし、神様だけは完全に公正なお方。だから、私たちに公正をお求めになるのです。次に、「誠実を愛し」(8節)とあります。誠実の反対は、不誠実でしょう。一度もうそをついたことのない人、ことばと行動が矛盾していない人っているのでしょうか。しかし、神様だけは完全に誠実なお方。だから、誠実であることを私たちにお求めになるのです。さらに「神とともに歩むこと」(8節)とあります。「神とともに歩む」。それは、どういうことでしょうか?それは、神様の願いや求めを知り、その歩調に自分を合わせること、そのためには「へりくだって」(8節)とあるように、自分には神とともに歩む力も知恵もないことを認め、助けを神に求めて、へりくだることが必要ではないでしょうか。プライドは砕かれる必要があります。

 日常の中で「ともに歩む」ということを考えると、「我(わがまま、勝手気まま)を捨て、相手に合わせる」ということでしょうか。もう35年前になります。私のプロポーズのことばは「イエス様のために、ぼくとともに歩んでくれませんか」でした。散歩とかハイキングへの誘いにも聞こえることばですが、結婚の申し込みとして受け止めてもらえてよかったなあと思います。35年間、ともに歩むことのむずかしさを経験してきました。お互いに違いがあり、プライドがぶつかり合うからです。「神とともに歩む」ことはそれ以上にむずかしいのは確実です。人と人との違いよりも、神と人との違いはもっと大きいからです。しかし、『聖書』には「神とともに歩んだ」と言われる人が記されています。エノク(創世記5:22,24)、ノア(創世記6:9)などです。彼らにも欠点や失敗や罪はあったでしょう。「神とともに歩む」とはどういうことなのか、考えていきたいと思います。失敗しないように硬直して完璧を目指すことや、自分の最善を尽くすために苦しみ犠牲を払うことではなく、あなたが神様に造られたとおりの姿になり、風が自由に吹き抜けるような、楽しさと喜びが神様の側にもあなたの側にもあるような、自由な関係ではないでしょうか。ジョン・ウェスレーは“Holiness is Happiness”と言いました。神様とともに歩むとは、ホーリネス(聖さ)であり、全き聖化であり、真の幸福を実感できる関係ではないでしょうか。

Ⅲ.むすび    

 「主に喜ばれる教会」とは、「神とともに歩む教会」ではないでしょうか。そのような私たちとされるため、十字架にそのおからだをささげ、血を私たちのために流してくださったイエス様を覚え、へりくだって、「聖餐」をいただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)