2022年9月18日 礼拝説教 「神を重んじるには」

聖書: サムエル記 第1 2章12~26節

Ⅰ.はじめに

 私たちが誰かを大切にすること、重んじることは、どんな態度に現われるでしょうか?例えばその人の近くにいるとか、その人のことばを聞いてその通りにするとか、いろいろあるでしょう。神様を大切にする、神様を重んじるとは、どういうことでしょうか?やはりそれは、神様に心を向けるとか、神様のことばを聞きその通りにすることなどでしょう。

 この教会の礼拝では、神様のことばである『聖書』の、イエス様が来られる前のことを記す『旧約聖書』の「サムエル記」を今年1月から少しずつお聴きし、今日は前回7月24日の続きの所です。1章にはイスラエル民族のエルカナという人と二人の妻のことが記されています。妻ハンナには子がなく、もう一人の妻ペニンナは子だくさん。ペニンナはハンナをいらだたせ、ハンナはつらい中で神様に「男の子をくださるなら、あなたにささげます」と祈ります。彼女には男の子が生まれ、乳離れするまで自分で育て、2歳か3歳かのかわいい盛りだったでしょうが、誓いの通り神様にささげるため、主の宮に連れて行き、神様に仕える祭司に任せたのでした。前回お聴きしたのは、その時のハンナのお祈りのことばでした(2:1~11)。その次に『聖書』が記しているのは何でしょうか?

Ⅱ.みことば

1.神を軽んじた人々(サムエル記 第1 2章12~17節)

 ここに書かれているのは、ハンナが自分のいとしい子サムエルを神様にささげ、実際には主の宮に連れて行き、サムエルを預かってもらった祭司エリの息子たちのことです。どんな息子たちだったか?12節をお読みします。「よこしまな」とは「邪悪な」ということです。「主を知らなかった」とあります。これはどういう意味か。祭司の跡継ぎとなる息子たちですから、『聖書』は知っていたと思います。神様はどんなお方か、礼拝するとはどういうことか、神様にささげものをする時はどうすべきか、父親から教えられていたはずです。頭では「わかっていた」けれども「その通りに行なわず」、自分のこととして「身についていなかった」。それが「主を知らなかった」ということではないでしょうか。

 「主を知らなかった」という息子たちの具体例が2つ、書かれています。一つは、神のものを自分のものとする罪です。13~14節をお読みします。当時、誰かが神様に牛や羊などのいけにえをささげる場合、その一部は祭司に与えられたのでした(レビ記7:30-32など)。しかし、エリの息子たちは、神にささげるものを勝手に自分のものとして取っていたのです。もう一つは、神よりも自分を先にする罪です。15~16節をお読みします。当時、牛や羊の脂肪は神のものとして先にささげられ焼かれたのですが、祭司の息子たちは、神にささげて焼く前に生の肉を渡すよう求め、その通りにならないと力ずくで取ったのでした。

 17節には「主」という文字が2回記され、強調されています。祭司の息子たちの罪は主の前で非常に大きく、言わば、神様の顔に泥を塗ったのと同じように、神様を軽んじたのでした。彼らは主へのささげものを侮り、礼拝を軽んじ、神様ご自身を軽んじたのでした。

2.神に仕え、祝福された人々(サムエル記 第1 2章18~21節)

 そのような環境で過ごした幼いサムエルは、どうしていたでしょうか?18節をお読みします。「亜麻布のエポデ」(18節)とは当時、祭司が着る服装です。サムエルは幼いながらも、祭司の装束を身につけ、「主の前に仕えていた」(18節)のです。祭司エリの息子たちの罪が非常に大きかったのは「主の前」(17節)、サムエルが幼いしもべとして仕えていたのも「主の前」(18節)であり、この2つの姿は非常に対照的です。

 サムエルの家族は毎年、神様にいけにえをささげて礼拝するために主の宮に行きます。母親のハンナが毎年、持って行ったものは何か?19節をお読みします。それは「小さな上着」です。サムエルの成長に合わせ、毎年、少しずつ大きくなる上着を持っていくことは、母親にとって喜びであり、誇りでもあったのではないでしょうか。子どもを主にささげた親は、それっきり会えないのではなく、毎年、このような喜びとともに会えたのです。

 この家族を迎えるエリは、彼らを祝福し、お祈りしました(20節)。主はハンナを顧みてくださり、3人の息子と2人の娘が与えられ、一方、「少年サムエルは主のみもとで成長した」のでした(21節)。ここに、祭司エリの家族とは正反対の、神様に祝福された人々の姿があります。神様を礼拝し、与えられた子どもを神様にゆだねた家族の祝福です。また、邪悪な環境であるにもかかわらず、「主のみもとで成長した」というサムエルの祝福です。それは、神を重んじる人に与えられる祝福の重さ、豊かさと言えるのではないでしょうか。

3.神を軽んじる人々の暗闇と一筋の光(サムエル記 第1 2章22~26節)

 ここからは再び、サムエルとその家族とは正反対の、神を軽んじる人々をおおう暗闇が語られていきます。もはや自分の力では追い払うことができない、圧倒的な暗闇です。エリが聞いたのは「息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終」(22節)でした。それには、主へのささげ物を軽んじ、神のものを横取りしていた罪(13~16節)も含まれていたでしょう。さらにエリは、息子たちが、当時の礼拝の場である「会見の天幕」の入口で掃除などの奉仕をする女性たちと寝ているというふしだらな行為(22節)も人々から聞きました。エリはどうしたか?23~24節をお読みします。息子たちを叱ります。しかし、弱々しい感じです。「それは罪だ。悔い改めなさい」と、なぜ言えなかったのでしょうか。何度言っても、彼らが変わらなかったからでしょうか。あきらめムードに逆らえず、エリは罪の暗闇を追い払うことができません。ついにこう言ってしまう。25節をお読みします。当時、主に対して人が罪を犯したら、祭司がいけにえをささげ、神様とその人の仲裁をしました。しかし、「その祭司が主に対して罪を犯したら、誰が仲裁に立つのか」と祭司の限界を叫ぶような、問いかけを口にしたのです。これはエリの本音でしょう。それでも息子たちは神を軽んじることをやめませんでした。何度言ってもやめないなら、神はその人をなすがままに任せ、「殺すことが主のみこころ」(25節)という恐ろしい現実が待っています。

 しかし、ここに一筋の光があります。26節をお読みします。サムエルの時代から約1000年後、この表現はイエス様についても使われました。ルカ2:52を読みましょう。そして、「主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか」(25節)という問いかけは、救い主を待ち望み、指し示しているとも言えるのではないでしょうか。へブル7:26,27を読みましょう。イエス様こそ、私たちのための救い主、完全な祭司です。

Ⅲ.むすび

 今私たちは、エリの息子たちのようにではなく、神様を重んじる生活を願っているでしょうか?そのためにはどうしたらよいか?神様に今、日頃の自分を調べていただき、神様を侮り、軽んじている思いや行ないがないか、探っていただきましょう。もし、気がついたならば、素直にそれを認め、神様に告白するなら、イエス様が完全な祭司ですから、赦していただけます。昨日よりも今日、神を重んじる者とされましょう。

(記:牧師 小暮智久)