2022年6月19日 礼拝説教 「われは教会を信ず」

聖書: エペソ人への手紙 1章20~23節

Ⅰ.はじめに

 今日は教会の今の会堂が建てられた記念日です。会堂が完成して神様に献げる献堂式は1966(昭和41)年6月19日でしたから、56年前のちょうど今日です。隣の教務館(教会の教務と牧師の住居の建物)はその5年後に建てられました。この7月で51年になります。

 もう一つ覚えたいのは、この教会が伝道を始めて99年になるということです。フリーメソジスト教会は1860年にアメリカでスタート、柿原正次師が宣教師としてアメリカから淡路島に派遣されたのが1896年、フリーメソジストの日本伝道は兵庫、大阪、奈良、和歌山など関西圏に広がります。この教会の始まりは土山鉄次師を中心に教会が組織された1923(大正12)年6月24日で、99年前の今週金曜日です。場所は阿倍野区王子町、当時の出席会員は11名、教会名は「第三自由メソヂスト教会」(自由メソヂスト大阪第3教会)でした。

 礼拝で毎週告白する「使徒信条」には「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、…を信ず」とあります。「教会を信ず」と言っているのです。「教会を信じる」とはどういう意味だろうかと前から思いめぐらしてきました。「使徒信条」は「われは…父なる神を信ず」「われはそのひとり子、…イエス・キリストを信ず」「われは聖霊を信ず」と三位一体の神を信じると告白しています。「聖なる公同の教会」は「聖霊を信ず」のすぐあとにあります。「教会」は聖霊なる神様のわざの最初に告白されていると言えます。つまり、「われは教会を信ず」とは「私は教会が聖霊のわざによるものだと信じます」という告白だと言えるでしょう。あるいは、「『教会』を聖なるものとしているのは聖霊(あるいは、三位一体の神)だと信じます」という告白だとも言えるでしょう。私たちの教会の始まりを覚える今日、「教会とは何か」と「私たちへの神様の働きかけ」について、みことばから共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.キリストが教会のかしら(エペソ人への手紙 1章20~22節)

 この「エペソ人への手紙」は、パウロという人が同じユダヤ人から迫害を受け、ローマ皇帝による裁判を待つ間、拘束されていたローマで、地中海に面したエペソという町(今のトルコ共和国の西海岸)の教会の人々に送った手紙です。時代は1世紀の半ばすぎ、西暦60~62年頃に書かれたようです。この手紙にはあちこちにお祈りのことばが記されています。パウロがどんなお祈りをしたかが今もわかるという意味でも興味深く感じます。彼のお祈りの一つが17~19節にあります。パウロは、エペソの教会の人々に「神を知るための知恵」(17節)が与えられるようにと祈りました。また、イエス様を信じた人が受け継ぐ相続財産がどれほどすばらしいかを知ることができるようにとも祈りました。そして、イエス様を信じる人に働く「神の大能の力」(19節)がどれほど偉大かを知ることができますようにと祈っています。神様の力は今も働き、私たちはそれを経験できるのです。その実例としてキリストの復活、昇天、着座という事実をパウロは取り上げています(20節)。イエス様のこれらの事実を知った今の私たちも、イエス様が、今の世だけでなく、「次に来る世」(21節)である新しい天と地においても、すべての支配や権力の上におられるのだということがわかります。このキリストと教会とはどんな関係にあるか?22節をお読みします。神様は、このキリストを「かしらとして教会に与え」(22節)られました。すべての権威の上にあるキリストが、教会のかしらとして、教会をかたちづくり、教会をお導きになられます。ですから、教会を見ると、かしらであるキリストが見えるはずであり、キリストを通して働く神の偉大な力が見えるのではないでしょうか。

 今日、この教会の年表と献堂以降56年間に洗礼を受けた方・召された方の一覧表をお配りしました。これらのひとりひとりをご自身のもとに招き、イエス様の十字架と復活のゆえに罪と滅びから救い出し、ご自身の子どもとし、神の国の相続人として加えてくださった神様の偉大な力が、今も働いていることを見ることができるのではないでしょうか。

2.教会はキリストのからだ(エペソ人への手紙 1章23節)

 神様の偉大な力のあらわれであるキリストを「かしら」として与えられた教会とは、どのようなものでしょうか?23節をお読みします。「教会はキリストのからだ」(23節)と言われています。キリストが「かしら」、つまり、頭であり、教会はそのキリストのからだにたとえられています。これは改めて考えてみると、畏れ多いこと、ありがたいこと、光栄なことではないでしょうか!「畏れ多い」というのは、かつて神様を知らず背き、滅んで当然であった自分が、イエス様を信じることによって、教会の一員とされ、キリストのからだの一部とされたゆえです。「ありがたい」というのは、そんな自分がキリストに呼ばれ、召されて「かしら」であるキリストと結ばれたゆえです。キリストからいただいた「永遠のいのち」によってこの地上で生かされ、神様の子どもとして育てられ、キリストのからだの一部として「次の世」(新しい天と地)でも喜びに満ちたいのちを保証されていることを感謝せずにはおれません。「光栄なこと」というのは、このように弱く、欠けの多い自分が、キリストのやっかい者ではなく、「キリストのからだ」そのものの一部とされていることのゆえです。私たちのからだは、たとえ足の小指の先のとげであっても痛みを感じ、それを取り除こうと努力します。私は、キリストのからだの小指の先のような小さな存在でしかないかもしれませんが、そんな私が感じる痛みを、キリストはご自身の痛みと感じてくださる。また、キリストはその痛みを和らげ、いやし、ご自身のみわざのために、他のからだの部分である様々な人々と組み合わせてお用いくださる。光栄だなあと思います。

 日本にはキリスト教会以外にも「教会」と呼ばれるものがありますね。それらとキリスト教会とはどう違うのでしょうか?「天理教」での教会は「親神様の教えを伝え広めるとともに、陽気ぐらしの生き方を学ぶ地域の信仰の拠り所」だと書かれていました。また、「金光教」での教会とは、「天地の親神様の教えを学ぶ場」とされているようです。それに対して、キリスト教会とは建物ではなく、イエス様を信じる人々の集合体であり、キリストのからだなのです。あなたもイエス様をキリストと信じているなら教会の一部、キリストのからだの一部です。そして、「すべてのものをすべてのもので満たす方」(23節)であるキリストが、イエス様を信じる人々の集まりである「教会」には満ちておられるのです。

Ⅲ.むすび

 今日も私たちは「使徒信条」で、父、御子、御霊の三位一体の神様への信仰を告白し、この神様のお働きによって始まった「聖なる公同の教会を信ず」と言い表わします。会ったことがない人、これから会う人も含め、同じ教会の仲間の存在が神様のみわざのゆえであることを信じ、受け止め、「かしら」であるキリストに養われ、導かれ、今週も「キリストのからだ」の一部とされていることを自覚して過ごしましょう。

(記:牧師 小暮智久)