2022年3月27日 礼拝説教「父の家でともに」

聖書: ヨハネの福音書  14章22~23節

Ⅰ.はじめに

 先週から特に、「父」ということばが、私の心に響いてきます。今までとは違う感じ方をするように思います。今日礼拝でみなさんと一緒に神様にささげる讃美の歌も「父」ということばが入っているものに心が引かれました。みことばもそうです。父の存在。親の存在と言ってもいいでしょう。そして、自分。父と自分の関係。そして、家族。父なる神様とその子どもとされた自分。そして、私たちは、この父の家族として、神様の家族とされています。

 日曜日の礼拝は、共に集まって神様の前で過ごす場、神様の家族と共に神様の前で過ごすときです。先ほどお聴きしたのは、イエス様が聖餐を定められた「最後の晩餐」と呼ばれる夕食の席でのことば。そこも、イエス様の前で人々が共に過ごした場でした。

Ⅱ.みことば

1.父の家とは?(ヨハネの福音書 14章2~3節)

 イエス様はその場で「わたしの父の家」について語られました。イエス様が言われた「父の家」とは何でしょうか。14:2,3を読みましょう。それは、父のみもと、天国です。天国とは、イエス様の父の家、父なる神様の家です。しかも、「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)とある通り、そこに私たちのための場所、わたしたちが住む所が用意されるのです。つまり、イエス様の父である神様の家に、私たちが神様の家族とされて住む所、それが「天国」です。地上の父親への気持ちは人それぞれでしょう。良い思い出がある人もあれば、傷つけられたことを思い出す人もあります。地上の父は不完全であり、子どもへの愛もまた不完全です。しかし、ここでイエス様が言われた「わたしの父」、天の父なる神様は、私たちひとりひとりを造られたお方であるので、私たちを誰よりもいとおしく思い、私たちを誰よりも理解してくださり、限りない愛で愛し、大切にしておられるお方です。その父の家で憩うことができる。それが、私たちが迎えられる父のみもと、天国です。

2.父の家に行く道は?(ヨハネの福音書 14章6節)

 私たちは、家に帰る道を選ぶことができます。電車か車か、バスか歩きか。どの道を歩くか、いろいろと選べるでしょう。以前、妻の実家へ子どもたちと車で帰る際、高速道路が渋滞していたので、手前の出口で一般の道におりたことがあります。ナビゲーターがない車です。私のイメージでは、その道を行けば割合スムーズに行けるはずだった。しかし実際にはかなり遠く、道も複雑でした。夜遅くに、ようやく家に着いた時、妻の父に「なんで、あんな所で高速道路をおりたのか」とさんざん言われました。

 道を選ぶのは大切です。6節にどう言われていますか。イエス様は「わたしが道だ」と言われました。イエス様はご自分を、「父のみもと」、つまり、「父の家」、天国に行くことのできる道だと言われたのです。しかも「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と断言されました。なぜでしょうか。私たち人間が、父なる神様に造られたのに、このお方に背いて離れ、私たちが父との親子関係を否定してしまったからです。それでも、神様は私たちを見捨てず、あきらめず、親子関係の回復を願われました。そのためのただ一つの方法として、神に背いたことのないお方を、私たちと同じ人としてこの世界に送り、私たちの背きの罪を私たちの代わりに背負わせ処罰し、親子関係を回復する道を準備されました。イエス様は、私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活されて、私たちと父なる神様との関係回復の道となられたのです。このイエス様を、自分の救い主と信じ、受け入れるなら、私たちは父なる神様との親子関係が回復され、誰もが例外なく「父の家」、天国に迎えられます。イエス様を信じているなら、あなたは間違いなく天国に行けます。イエス様がそのための完全な道となってくださったからです。

3.神の住まいはどこに?(ヨハネの福音書 14章23節)

 イエス様を信じるとは、ただ理解し思うだけでなく、自分の日常でイエス様を信頼し、イエス様を愛し、重んじることです。具体的には、イエス様が言われたことを守り行なう、イエス様と一緒に生活することです。そのような人に何が約束されたか?23節をお読みします。「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」。「わたしたち」とは、「わたし」と「わたしの父」、つまり、イエス様と父なる神様のことです。イエス様と父なる神様が、その人と共に住む。これは「ともに住みます」と断言されている確かな現実です。

 これは驚くようなことばではないでしょうか。「父なる神様とイエス様とが、その人のところで一緒に住む」というのです。神様の住まいとはどこか?日本では、大きな岩とか古い大木とか、あるいは神社に神様はお住まいになるというイメージでしょう。ここでは、神様の住まいとは、私たち自身だというのです。「父の家」「神の住まい」、天国は私たちひとりひとりのうちに始まるのです。イエス様を信じた人は、父の家、神の住まい、天国をうちに宿し、それはその人のうちで深まり、身近な人へと広がっていきます。やがて、イエス様の再臨の日、文字通りの「父の家」「神の住まい」に私たちは移され、迎えられます。

Ⅲ.むすび   

 この受難節(レント)の日々に私たちは、「父の家」にやがて迎えられる希望が確かであることを、そのためにイエス様が自分のために十字架で苦しみを受けてくださったことを深く思いめぐらし、そのイエス様の愛を味わわせていただくことができます。イエス様を救い主として信じ受け入れていることによって、私たちは今すでに自分が神様の住まいとされていることを深く味わわせていただけます。今週、私たちは「父の家」の子どもとして、自分が神様の家族のひとりとしてつながっており、「神の住まい」とされていることを強く意識させていただいて過ごしましょう。

(記:牧師 小暮智久)