2022年1月23日 礼拝説教「多くをゆるされ」

聖書: ルカの福音書 7章 36~50節

Ⅰ.はじめに

 私たちは日常、ほかの人と自分を比べることがあるでしょうか?たとえば、「自分はあの人よりはまじめだ」とか、「あの人は何でも器用だけど、自分にはできない」とかです。比べることは悪くなくても、それで自分や人の評価や決めつけが始まると、それに束縛されがちになります。たとえば「何でも器用にできること」に価値があると決めつけると、自分は器用にできないからダメなんだと、その考え方に縛られて自由がなくなってしまいます。誰かと比べたり、自分を評価したりするのとは全く違う過ごし方は、愛され、ゆるされた者として過ごすことです。そこには、感謝があり、自由があるのではないでしょうか。

 この教会の礼拝では2017年から「ルカの福音書」を少しずつ聴き、今日は前回お聴きした昨年10月24日の続きの場面です。『聖書』は今の私たちに何を語るのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.パリサイ人と罪深い女性(ルカの福音書 7章36~39節)

 「週報」の「今日のみことば」の欄にある『聖書』の箇所を、先週読まれましたか?短い箇所ですから、ぜひ、おうちで『聖書』を開いてみてくださいね。『聖書』を読むとき、登場人物がどんな人かを心に留めるとわかりやすいのではないでしょうか。たとえば、今日のところでは、「パリサイ人」(36節)と「罪深い女」(37節)です。「パリサイ人」というのは約2000年前のユダヤで、『聖書』をよく知っていて、その通りにまじめに生きようと努力した人、人々からエリートと思われていましたから、この二人はとても対照的です。

 そのパリサイ人がイエス様を食事に招きます(36節)。なぜ、イエス様を招いたのか?推測ですが、最近うわさのイエスという人の品定めというか、評価をしようと思ったのかもしれません。イエス様はパリサイ人の家に入り、食卓に着きます。イエス様は当時「罪びと」と言われた人たちだけでなく、エリートと思われていた人とも食事をされたのですね。

 「その町に一人の罪深い女がいて」(37節)とあります。具体的な罪は書かれていません。売春などかもしれません。この女性は、イエス様がおられるその家に行くのです(37節)。それで、何をしたか?38節を読みましょう。彼女がしたことが何を意味するかはあとで明らかにされますが、パリサイ人はこのときの様子を見て、イエスがどんな人かを評価しています。39節を読みましょう。パリサイ人は「イエスは預言者ではない。また、イエスはこの女の罪深さもわかっていない」とイエス様を評価したのでした。このとき、パリサイ人は、この女性を見下していたのはもちろん、イエス様をも自分と比べて「たいしたことはない奴だ」と思ったのではないでしょうか。今の私たちがそこにいたとしたら、このイエスという30代前半の男性をどう思ったでしょうか。

2.ゆるしと愛(ルカの福音書 7章40~50節)

 この場面でイエス様はどうされたか?40節を読みましょう。目に見える行動を自分に対してした女性にではなく、目に見えない心の中で自分を評価しているパリサイ人に向かって名前を呼び、「あなたに言いたいことがある」と言われたのです(40節)。「あなたが今、何を思っているか、わたしはわかっているよ」とほのめかされているように感じます。

 イエス様が話されたのは、借金をゆるされた人のたとえ話(41~42節)。1デナリとは1日分の給料だったそうですから、500デナリは今で言えば500万円ぐらいでしょうか。もう一人は50万円ぐらいの借金で、二人とも返せないので金貸しは帳消しにしてやった。「二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか」と問われています。

 このたとえ話は何を意味しているのでしょうか?一言で言えば、「この女性は、多くの罪をゆるされたから、多くの愛をあらわしたのだ」ということではないでしょうか。イエス様はここで彼女の方を向いて、シモンに言われます。44節を読みましょう。「足を洗う水」(44節)は当時、サンダルで外を歩きよごれているお客さんの足を洗うためのもので、接客のマナーでした(士師記19:21)。彼女は以前、イエス様のお話を聞き、イエス様を信じ、罪の赦しを実感していたのでしょう。喜びと感謝の涙でイエス様の足をぬらし、自分の大切な髪の毛で足のよごれをぬぐいとったのです。45節を読みましょう。「口づけ」(45節)は当時、お客さんを迎える時の歓迎を意味しました。彼女は自分を低くして、イエス様の足にその歓迎の口づけを行なったのでした。46節を読みましょう。「頭にオリーブ油」(46節)は当時、お客さんを食事に迎える際の習慣でした(詩篇23:5)。ふつうはオリーブ油を用いましたが、彼女はそれよりも高価な「香油」(46節)を足にぬったのでした。彼女が行なったこれらのことは、多くの罪をゆるされた感謝と喜びをあらわしており、イエス様を大切に思う愛の心を見えるかたちであらわしているのではないでしょうか。

 47節を読みましょう。これは、彼女はイエス様に多くの愛をあらわしたから、多くの罪をゆるされたという意味ではありません。逆です。彼女があらわした多くの愛は、イエス様にどれほど多くの罪をゆるされたかをあらわしているということです。そして、ゆるされることの少ない人、たとえば、このパリサイ人シモンのように、自分の罪の自覚が少ない人は、ゆるされる実感も少なく、神様への感謝や愛も少ないのではないでしょうか。イエス様は彼女に「あなたがあらわした多くの感謝と愛は、あなたが多くの罪を赦されているからだ。あなたの罪はすでに完全に赦されています」と宣言されました(48節)。同じ食卓に着き、これを聞いていた人々の戸惑いはよくわかります。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか」(49節)。この人は、いったいだれか?これは、今の私たちへの問いかけでもあります。預言者は、神のことばを伝えますが、イエス様は預言者以上のお方、罪の赦しさえも宣言されるのです。この人は、いったいだれか?これは、今の私たちへの招きでもあります。どんな罪でも、このお方によって赦されるという招きです。

 罪の自覚について、同じパリサイ人のパウロはどうか?ローマ7:15~19,24を読みましょう。彼は自分のうちにある罪に悩んでいます。Ⅰテモテ1:15を読みましょう。彼はイエス様を信じてからも自分の罪の自覚を深め「罪人のかしら」とまで言います。今の私たちも、自分の罪の深さを自覚する時、神様のゆるしの深さを実感でき、神様への感謝や愛が湧き上がり溢れ出るのではないでしょうか。人との比較や自分への評価ではなく、多くをゆるされた者として毎日を過ごすとき、そこには感謝と自由があるのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 神様はあなたを愛しておられます。あなたを造り、命を与えたお方だからです。しかし、神様から離れて自分を正しいとしてきた自分の罪は、努力などで帳消しにできるほど軽くはなく、神の御子イエス様が十字架で身代わりに死ぬことによってのみ、ゆるされるものでした。人からどう思われるかではなく、自分も多くをゆるされた者であることを感謝し、神様への感謝と愛があふれ出る一日一日を過ごしていきましょう。

(記:牧師 小暮智久)