2022年1月2日 礼拝説教「将来と希望」

聖書: エレミヤ書 29章10~14節

Ⅰ.はじめに

 主イエス様のご降誕を紀元として数えて2022年という新しい年、最初の主の日です。どのような思いでおられますか?「いつまで続くのか」とため息が出るような困難が、私たちをいくつも取り巻いているようにも思えます。特に、今は「コロナ禍」が大きな困難でしょう。感染の再拡大の可能性も不安になります。あるいは、「コロナ禍」でなくても、いつの時代でも「貧・病・争」と言って経済的な困難、健康上の困難、家族や親族や隣近所との人間関係の困難などがつきまとうこともあります。また、「孤独」という困難もあり得ます。一人暮らしの人に限らず、自分をわかってくれる人が身近におらず、「居場所がない」と感じる人も増えているようです。この場合の「居場所」とは、家や学校や職場など以外で、血のつながりや何らかの立場や役割とは関係なく、ありのままの自分でいられる第三の場所で、誰もが安心して過ごせて、利害関係のない人とつながれる場所を意味します。たとえば、「教会」という場は、そのような「居場所」となり得るでしょうし、「孤独」という困難な現実に対して果たし得る役割が増えていくのではないでしょうか。

 今から2600年ほど前、西アジアのイスラエルの人々も非常な困難の中におりました。バビロニアという大帝国に攻め入られ、今のイラクあたりのバビロンに強制的に連れて行かれたのです。これを「捕囚」と言い、英語では「エグザイル」。ダンスとヴォーカルの「エグザイル」という人気音楽グループの名前と同じで「放浪者」を意味するようです。「捕囚」という困難な状況にある人々に、神様は何を語られたのか、『聖書』にともに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.見通しを示す神様(エレミヤ書 29章10~11節)

 さきほどお聴きした『聖書』のことばは、バビロンに「捕囚」となっている人々に、預言者であるエレミヤという人が書き送った神様のことばです。10節を読みましょう。それは、明確な見通しでした。「この場所」とは、故郷であるエルサレムなど、ユダヤの地です。「捕囚」はイスラエルの人々が真の神様を捨て、人が作った神々を礼拝したことに対する神様のさばきでした。そのさばきは、70年という長期間でしたが、その困難は無期限ではなく、限りがあるという見通しを、故郷から遠く離れた人々に知らせてくださったのです。

 神様は計画を立てておられるお方です。11節を読みましょう。「わたし自身、・・・計画をよく知っている」という表現に、私はひっかかりを感じました。ご自分で立てている計画を神様がよく知っているのは当たり前ではないか、わざわざこう言われた意図は何だろうか、と思ったのです。このことについて、手元の注解書は何も触れていませんでした。案外、一番知りたいことは書かれていないことが多いです。自分なりに思い巡らしてみました。当時の人々が「神様は私たちの困難をどう考えているのか。ひょっとして無計画なのだろうか」と考えるのを意識して、このような表現になったのではないでしょうか。

 神様が立てている計画とは、どのようなものか?それは、私たちのための計画であり、「わざわいではなく平安を与える計画」であり、「将来と希望を与えるためのものだ」(11節)と言われています。「平安」と訳されたヘブル語は「シャローム」で、単に争いがないというだけでなく、生き生きとした命や交流という意味があります。「将来」の反対語は「過去」ではなく「ゆきづまり」や「閉塞」であるように思います。「神様と私たちの生き生きとした命のある交流」と、先細りやゆきづまりでなく、神様の祝福とみわざが広がっていくという「将来と希望」を与える計画が、困難な中にある私たちに語られているのです。

2.神様とのつながり方(エレミヤ書 29章12~14節)

 では、バビロンに「捕囚」となっていた人々は、70年間と言われているその現実を、これからどのように過ごしていったらよいのでしょうか?30数年前に私が初めて大阪に移り住んで印象的だったコマーシャルの一つは「~がある時、~がない時」という某豚まんの宣伝です。捕囚の地バビロンにないものとは?「住み慣れた家」、「故郷の風景」、最も大きな欠けとは神様を礼拝する「神殿」です。「神殿がない時」、イスラエル人々は異教の外国バビロンで、どう過ごしたらよいのか?12節を読みましょう。イスラエルの民は、「神殿」がない困難の中で、神様とのつながり方を身に着けるのです。私たちも、ひとりでどこでも、また、誰かと一緒に教会などで、お祈りすることができます。お祈りは、神様との会話、神様とつながる大切な手段です。まず、「神様」「天のお父様」などと呼びかけ、讃美や感謝をあらわし、話したいこと、願うこと、聞きたいことなど自由に祈り、「イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」と結べばよいのです。特に、教会に来られる時には、礼拝のあとなど、近くの席の人と一緒にお祈りすることをおすすめします。

 13節は興味深い約束ではないでしょうか。神様を捜し求めるなら、見つけられるのです。「捕囚」の地にいた人々にとって、「神殿」がなくても、神様を求めるなら見つけられると言われたのは驚きだったのではないでしょうか。神様は、求める人にご自身を示してくださいます。今もそうです。神様の存在を信じられないという人も、信じてきたはずだけど今、神様がわからなくなってしまったという時も、神様を捜し求めるなら、神様はその人にわかるようにご自身をあらわしてくださいます。『聖書』や「教会」の存在やクリスチャンの知人や家族によって、近畿福音放送伝道協力会の「ライフライン」などテレビ番組や、クリスチャンの小説家の作品によってなど、様々なものを神様はお用いになります。

 先行きが見えない困難な時代は、神様とのつながり方を、個人としても、教会としても身に着けていく恵みの機会となります。そして、神様は、イスラエルの回復を約束されました。14節を読みましょう。神様は、元の場所へ帰らせると約束されました。第1回の捕囚(紀元前605年)から約70年後の紀元前538年、ペルシア帝国がバビロニア帝国を滅ぼして「捕囚」が終わり、イスラエルの民は元の場所に帰り、この約束は実現したのでした。

Ⅲ.むすび

 「将来と希望を与える」と言われた神様の約束は、この時から約600年後、今から約2000年前、神の御子が人として生まれ、このイエス様が十字架で死なれ、葬られ、3日目に復活された時に、すべての人のための「救い」として実現しました。神様に造られ生かされているのに、神様の存在を否定し、この方と無関係に、自分を中心にして生きる「罪」の結末は、「将来と希望」とは正反対の「ゆきづまりと絶望」の極みである滅びですが、イエス様が準備してくださった「救い」は、この「罪と滅び」からの「救い」だからです。この「救い」は、イエス様を救い主と信じ迎え入れた人に与えられ、様々な困難な中でもこの「将来と希望」を部分的ですが経験するようになります。それを、完全に経験するのは、イエス様が再び地上に来られ、新しい天と地がもたらされる時です。今日いただく「聖餐」は、その「主が来られる」(Ⅰコリント11:26)日を指し示しています。「聖餐」をいただくことで私たちに確約された「将来と希望」を深く味わいましょう。

(記:牧師 小暮智久)