2021年9月26日 礼拝説教「神のみわざを待ち望む」

聖書: 創世記 49章1~18節

Ⅰ.はじめに

 9月最後の主の日です。今年度の半年が過ぎようとしています。この半年間は「緊急事態宣言」が出されていた期間が長く、私たちの教会では礼拝堂に集まれたのがわずか9回です。主の日(日曜日)は26回でしたから、その内の3分の2はそれぞれの家などでスマホやパソコンの画面を見ながら、または、「週報」や「礼拝説教の概要」を読みながらの礼拝だったことになります。映像や週報で、教会へ行かなくても同じ時間に神様を礼拝できるのは、身体は楽で、それも確かに「主の日」の礼拝ですが、やはり、礼拝堂に集まって一緒に礼拝することの代わりにはならないのではないでしょうか。というのは、「主の日」の礼拝は、イエス様が復活したことを記念して集まることに意味があるからです。また、映像や礼拝説教の概要による礼拝は、どうしても「説教だけ」の礼拝になりがちだからです。「説教さえ聞ければ、読めればいい」というのは「礼拝」ではなく「講演会」や「学校の授業」のようになってしまいます。「礼拝」は、歌ってささげる「讃美」があり、「祈り」もあり、献金と共に自らをささげる「奉献」もあり、神様の前で共に静まる「前奏」と「後奏」もあります。「前奏」から「後奏」までの「礼拝」の全体への参加は、やはり実際に礼拝堂まで足を運び、自分の身体を運んで出席することで、それにまさるものはありません。そのような意味での「礼拝」で、私たちは2004年から「創世記」を少しずつお聴きし、神様の前に共に静まり、神様のみことばを、神様の語りかけを共にお聴きしています。今日は前回8月29日の続きで「創世記」の最後の方、49章です。アブラハムの孫ヤコブが12人の息子たちに告げた祝福のことばであり、将来についての預言でもあります。「創世記」の結論部分であり、私たちの目を将来へと向かわせることばです。共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.罪の現実と救い主の約束(創世記 49章1~12節)

 エジプトで死を前にした父ヤコブは、12人の息子たちを呼び寄せて言いました。1~2節を読みましょう。「終わりの日」とは、当時から数百年先の将来のことや、「終わりの時」(へブル1:2)と言われる救い主が来られてからの時代のことも含まれています。

 まず、長男ルベンです。3節は長男としてのあるべき姿、4節はルベンの罪の現実を語っています。彼の現実とは「水のように奔放」(4節)と言われた通り、自分を制御できず、特に性的な欲望を自分でコントロールできなかったことでした。ルベンは父ヤコブのそばめであるビルハと性交渉をもち、姦淫を行ないました(35:22)。それゆえ、最初に生まれたという長子の特権を失ったのです(I歴代誌5:1)。長子であるのに、ルベンの子孫からは「さばきつかさ」と呼ばれた「士師」も、預言者も、王も、一人も出ませんでした。

 次に、シメオンとレビに言われたことです。彼らは父ヤコブの二人の妻のうち、レアから生まれた「兄弟」(5節)です。「彼らの剣は暴虐の武器」(5節)と言われているのはなぜでしょうか?それは同じ母レアから生まれたディナという彼らの妹が、その土地の族長の息子に強姦されたことに激しく怒り、その復讐のために、その土地の一族の男たちをすべて殺し、妹を連れ戻した出来事のことです(34:25~31)。父ヤコブは「怒りに任せて人を殺した」(6節)のを厳しく叱責し、「のろわれよ」(7節)と告げています。怒りに任せた行動は、神様の心に背くものです。「イスラエルの中に散らそう」と言われていることは実際、シメオンの部族がこのあと、出エジプト後2年目には約6万人もいたのに(民数記1:23)、約40年後には半数以下の2万2200人(民数記26:14)に激減したことにもあらわれています。

 そして、ユダへのことばです。今日の箇所では最も長く、祝福の約束が幾重にも重ねられています。次回、お聴きすることになるヨセフに対する祝福に勝るとも劣らない内容です。ユダの子孫、その部族は12人のリーダーとなります(8節)。ユダの部族は「獅子の子」(9節)と呼ばれます。それは、力と威厳を備え、恐れを知らない姿をあらわしています。さらに「王権はユダを離れず」(10節)とあります。「王権」(10節)は直訳すると「杖」で、権威や支配を象徴します。実際、ユダ部族からは王が多く出たのでした。「ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う」(10節)の「彼」とは、将来来られる救い主を指しています。「シロ」とは今も意味がわからないことばですが、救い主と関連があると言われます。

 ここまでを振り返りましょう。ルベン,シメオン,レビの罪の現実と、ユダに言われた救い主の約束との「対比」が見えてくるのではないでしょうか。「創世記」の時代に神様は、ご自身の心に背く私たちの罪のために、救い主の到来を約束してくださったのです。

2.豊かさと束縛、待ち望む祈り(創世記 49章13~18節)

 ヤコブの12人の息子たちへのことばが続きます。ゼブルンの子孫、その部族はやがて「海辺に」(13節)住むと言われていますが、実際に与えられた相続地は、海辺のシドンを含まず、もう少し内陸でした。しかし、海岸沿いのフェニキア人が行なっていた貿易活動に参加し、商業によって経済的には豊かになったようです。

 イッサカルは「たくましいろば」(14節)ですが、「身を伏せる」(14節)と言われます。自由を愛するが無気力、自主性に欠け、精神的には怠惰になると言われています。休息を求めましたが、逆に「苦役を強いられる奴隷」(15節)となったようです。

 今日の箇所の最後はダンについてです。ダンの子孫は「自分の民を・・・部族の一つとしてさばく」(16節)という小さいながらもしっかりとした部族になると言われています。「道の傍らの蛇」(17節)とは、獲物を狙うすばしこさをあらわし、「馬」やその「乗り手」(17節)は大きな敵をあらわし、戦って勝利を得ることが言われているようです。先週の礼拝で共にお聴きしたサムソンはこのダンの部族で、ペリシテ人との戦いに勝利しました。

 父ヤコブはこれらのことばを、息子たちとその子孫の将来についての預言として神様から与えられ、語りました。その途中に突然、祈りのことばがあります。18節を読みましょう。強さと弱さがそれぞれにあり、完全ではなく欠けのある息子たちの将来を思い、ここでヤコブは思わず祈ったのではないでしょうか。「あなたの救いを待ち望む」(18節)。「救い」とは、危機からの救いだけでなく、本来の健全な状態への回復のことです。それは、ユダの子孫に約束された「救い主」によってのみ、もたらされる「救い」です。ヤコブは、息子たち、神の民の将来にその「救い」を待ち望みました。今の私たちにとっては、預言の通りにユダの子孫として救い主イエス様が生まれたことにより、その「救い」は実現し、イエス様を信じることによって「神の民」である「教会」のひとりに加えられたのです。

Ⅲ.むすび

 今日は9月26日。1954年、青森と函館を結ぶ青函連絡船の洞爺丸が台風の強風で座礁転覆し多くの犠牲者が出た日。一人の宣教師が自分の救命具を女性に差し出して助けた出来事を忘れることができません。イエス様が私たちの身代わりに十字架で死んでくださり、3日目に復活されて成し遂げられた「救い」を受けたこの宣教師を通してなされた神様のみわざを思います。私たちもまた、イエス様の「救い」を受けた感謝として、神様が望んでおられることを今週選び取り、神様のみわざを待ち望みましょう。

(記:牧師 小暮智久)