2021年5月30日 礼拝説教「愛されている子として」

聖書: エペソ人への手紙 1章1~14節

Ⅰ.はじめに

 この頃、お互いにマスクをしていると道で会っても気づかない時があります。通り過ぎてから「あ、今気がつきました」と言っても、お互いの表情がわからない時もあります。気持ちや感情を、表情だけでなく、言葉で表現することも大切かもしれません。楽しい、悲しい、腹立たしい、いとおしいなど、私たちは自分の感情や、身近な人の感情に、どれだけ気がついているでしょうか?「自分が愛されている」と感じられるのは生きる上で大切だと思うのですが、どんな時でしょうか?電話やメールや何かを誰かから頂いた時、誕生日が覚えられていた時、困ったことを誰かに助けてもらえた時もそうかもしれません。

 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)の翌週で、「三位一体主日」と言います。父である神様の御子イエス様が天に昇られ、その10日後に聖霊である神様がくだり最初のキリスト教会ができ、これで、父、御子、聖霊がせいぞろいしたように思えるのでペンテコステの翌週が三位一体の神様を覚える日曜日になったのかもしれません。「三位一体」と言うとむずかしい感じがしますが、手紙の中で自然に取り上げられている箇所から共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.父である神の祝福(エペソ 1章1~6節)

 当時のクリスチャンの手紙には、まず差出人とあて先、祈りが書かれました。差出人は「パウロ」(1節)、「神のみこころ」(1節)が心に留まります。キリストの使徒になったのは自分の計画や願いではないことが強調されています。「みこころ」ということばは5,9,11節にもあり、私たちとも関わります。あて先は「エペソの聖徒たち」(1節)、エーゲ海に面するエペソという町にある教会の教会員です。そして、恵みと平安が祈られています(2節)。

 このあと実に自然に、父、御子、聖霊という三位一体の神様への讃美と、その讃美の内容とも言える私たちへの恵みが14節まで一続きの文章として語られます。

 まず、父である神様への讃美が記されます。「主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように」(3節)。なぜ、讃美しているかと言えば「神は・・・私たちを祝福してくださいました」(3節)。「祝福」とは幸せを祝い喜ぶこと。父である神様は私たちひとりひとりの存在を祝い、喜び、幸せであることを願われたのです。いつからか、と言えば天地を造られる前から(4節)、どのような幸せか、と言えば神様の前で傷のない「ご自分の子」(5節)にするという幸せです。神様は、親が子を思う以上の「愛をもって」(5節)、私たちをご自分の子にしようと選び、定め、決意しておられたのです。それはどう実現したか、と言えば神がその愛する方、すなわちイエス様にあって私たちに与えてくださった恵みです(6節)。父が愛する方とは御子イエス様であり、御子イエス様は父である神に愛される方です。つまり、御子キリストが父である神に愛されているように、私たちも神の子とされ、愛されるという恵みのすばらしさ、それが「恵みの栄光」(6節)ではないでしょうか。

2.御子である神による実現(エペソ 1章7~12節)

 父である神様の祝福、私たちを喜び、祝い、幸福であることを願う祝福は、豊かな恵みとしてあふれ、私たちの所へ届きました。どのようにしてでしょうか?「キリストにあって」(7節)、永遠の昔からおられる御子である神が人となってこの地上に来られ、私たちのために十字架で死んでくださった、「その血に」(7節)よって、すべての人の前に用意されたのです。御子である神、キリストによる祝福(「福」とか「ご利益」に近いでしょうか)とは、「贖い」(7節)と言われる「神の子どもとして買い戻されること」や、「背きの罪の赦し」(7節)などで、イエス様を救い主と信じ受け入れた人すべてに例外なく与えられます。

 御子キリストは、父である神がお立てになったご計画を実行に移し、「この恵みを、神は・・・私たちの上にあふれさせ」(8節)てくださいました。この「キリストにあって」(11節)、つまりイエス様を信じて、私たちに何が起きたのでしょうか?11節を読みましょう。「キリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました」。天地創造の前から父である神様が定めておられた、私たちをご自分の子とするという決意は、御子である神キリストによって、イエス様を信じる私たちが神の国を受け継ぐ者となる、すなわち、神様の子ども、神様の相続人となるというふうに実現したのです。それは、私たちの発想や計画ではない。それは、私たちを祝い、喜び、幸福を願う神様のみこころによる計画と実行力によるもので、そのほまれはただ神様にあります(11節後半~12節)。イエス様は神様の御子。この御子を信じる私たちも神様の子ども。御子が父である神様に愛されているように、私たちも神様に愛されている子とされたのです。これは驚くべき恵みではないでしょうか。

3.聖霊である神の保証(エペソ 1章13~14節)

 三位一体の神様は、3つの神様ではなく、おひとりの神様です。おひとりの神様のうちで、「父」は私たちをご自分の子にしようと選び、「御子」は罪の赦しを実現して私たちが御国を受け継ぐ者となるようにし、「聖霊」は私たちの保証となってくださいます。それは、どのような保証でしょうか?13節を読みましょう。イエス様の十字架と復活による「救いの福音」を聞いて信じた人は「聖霊によって証印を押されました」とあります。当時、「証印」とは品質が確かなしるしであり、持ち主が誰かをあらわすしるしだったそうです。聖霊は、イエス様を信じた人が神様の子どもであると「品質」を保証し、その人が罪と悪魔の支配下から神様の支配下に移されて確かに神様の所有となったことを保証するのです。

 この保証は、どのくらい確かなのでしょうか?「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(14節)と言われる時の「保証」とは「手付け金」、前払い金という意味だそうです。私たちが高価な品物を買うと契約するとき、その場で代金の一部を手付け金として払うとしたら、それは品物と引き換えに必ず全額を支払うことの保証です。それと同じように、私たちが「神の国」という莫大な財産の全部を必ずいただけることの保証として、手付け金として神様が私たちに与えてくださったのが、聖霊である神様なのです。裏返せば、私たちは今、聖霊によって「神の国」の一部をいただいており、味わっているのです。この驚くべき事実は「神の栄光がほめたたえられるため」(14節)でなくして何でしょうか。

Ⅲ.むすび

 イエス様がバプテスマを受けられたとき、三位一体の神様の祝福、喜び、幸福を願う愛が見えるかたちで現わされました(マルコ1:11)。父に愛され喜ばれる御子、その御子により私たちも神の子どもとされ、神の国を受け継ぐ相続人であることを聖霊が保証してくださいます。特にお祈りの時、私たちは三位一体の神様を覚えることができます。なぜなら、私たちは父である神様に(主の祈りなど)、イエス様の御名によって(ヨハネ15:16後半)、聖霊のとりなしによって(ローマ8:26~27)、お祈りできるからです。神に愛されている子として、恵みの栄光をほめたたえて今週も歩ませていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)