2021年4月25日 礼拝説教「平安と派遣」

聖書: ヨハネの福音書 20章19~23節

Ⅰ.はじめに

 新型コロナウイルスの感染が広がり、国から三度目の緊急事態宣言が出されるようです。「またか」と思い、「もう疲れた」とため息をつく人もあるかもしれません。去年の今ごろは、初めての緊急事態宣言で緊張や恐れを感じていたように思います。それが三度目ともなると、感染への恐れや不安はありつつも、思うように過ごせないいらだちや不満、希望が見えない気分の重さなどが加わってきているように思うのです。それは、イエス様を信じている人にも、信じていない人にも、同じようにのしかかってくる「いま」という時代の空気ではないでしょうか。キリスト者は決して問題にぶつからず、悩みを抱えないという訳ではありません。そうであればいいなあと思いますが、キリスト者だからこそ悩むということもあるかもしれない。では、悩みを抱え、希望が見えない重い気分の中で、イエス様を信じている人と信じていない人との違いとはいったい何でしょうか?先ほどお聴きした『聖書』のことばのイエス様と弟子たちとのやりとりから思いめぐらしてみましょう。

Ⅱ.みことば

1.平安(ヨハネの福音書 20章19~20節)

 今年は4月4日(日)がイースター、復活祭でしたので、今月は復活後のイエス様と人々とのやりとりの場面のみことばを、主の日に共にお聴きしてきました。今日、お読みいただいた所に「その日」(19節)とあるのは「週の初めの日」、今で言えば日曜日で、イエス様が復活されたその当日です。「夕方」(19節)というのは当時のユダヤ地方では、一日の終わりであり、始まりでもありました。というのは、当時の一日は日没から始まったからです。「創世記」の1章に「夕があり、朝があった」と繰り返される通り、日没を1日の始まりとするのは天地創造の時からのリズムと言えます。人間にとって日没は仕事を終え、やがて眠りにつく時ですが、人が眠っている間に神様が働きを始められる。それが1日の始まりで、やがて朝が来て、今度は人間が働きを始める。つまり、日没からまず神様が働きを始め、その応答として人間が働くというリズムです(『牧会者の神学』,p.91~93)。

 約2000年前の日曜日の夕方、イエス様の弟子たちは恐れて、戸に鍵をかけていました。イエス様を十字架につけたユダヤ人の指導者たちを恐れていたのです。そんな彼らに、何が起きたのか?19節を読みましょう。イエス様が来て、彼らの真ん中に立たれたのです。「平安があるように」とイエス様が言われたのは当時のあいさつですが、イエス様はただあいさつとして言われただけでなく、文字通りに弟子たちに平安を与えられたと言えるでしょう。イエス様は十字架にかけられる前の晩、弟子たちにこう約束されました。ヨハネ14:27を読みましょう。「わたしの平安」とは世が与えるのとは違う平安です。平安には2種類あると言われます。「状況の平安」と「関係の平安」です。「状況の平安」とは問題や悩みがない状態です。しかし、その平安は新たな問題が起きるとなくなってしまいます。一方、「関係の平安」とは自分と誰かとの関係が健全だという平安です。特に、この世界を造られた神様と自分との関係が健全なら、たとえ「状況の平安」は破れていたとしても、お祈りや信頼することができますから、最終的には安心ではないでしょうか。イエス様が私たちにくださる平安とは、「関係の平安」、神様と自分との関係が親しく、深められていくという平安です。その平安の出発点は何か?20節を見ましょう。イエス様の手には釘を打たれた跡、脇腹には死なれたあとに槍で刺された跡がありました。神様と私たちとの「関係の平安」の出発点は、私たちの神への背きの身代わりとなって十字架で死なれ、3日目に復活されたイエス様ご自身です。私たちはこのイエス様の平安をいただき、神様と自分との「関係の平安」、主にある兄弟姉妹と自分との「関係の平安」を深められていくのです。

2.派遣(ヨハネの福音書 20章21~23節)

 イエス様は再び弟子たちに平安をお与えになり、これからのことを示されます。21節を読みましょう。父なる神様が御子であるイエス様をこの世に遣わされたように、イエス様が弟子たちをこの世界に遣わすと言われたのです。これはどういうことか?イエス様はこのあと、天の父のもとへ昇られます。地上にイエス様がおられなくなったあと、イエス様は弟子たちにご自分の代理の役をさせようとしておられるのです。父なる神様は御子イエス様をご自分の使者として派遣されました。御子はその役割を完了して父のもとに帰られます。これからは、弟子たちがイエス様の使者として、証人として派遣され、その役割を果たしていくのです。弟子たちから次々に伝えられて約2000年、イエス様を信じる今の私たちもまた、イエス様の使者、お使いの役目を託されて、日常生活の場に派遣されていると言えるのではないでしょうか。私たちを今の日常の場所、家庭や職場や学校などに派遣しておられるのはイエス様です。私たちはその置かれた場で、イエス様を指し示し、「イエス様は自分にとってどんなお方か」を証言するのです。イエス様が与えてくださる平安は、この派遣のための平安、日常のどんな場所にもついて来る平安ではないでしょうか。

 しかも、イエス様の代理、お使いの役目は、自分の力では果たすことができません。22節を読みましょう。それは「聖霊」というお方によってのみ可能です。「聖霊」である神様がこの世に来られ、弟子たちを助けることを、イエス様は十字架にかけられる前の晩に約束しておられました。「平安」のことも「聖霊」のことも、十字架の前の夜に語られていたというのは、実に興味深いのではないでしょうか。「聖霊」についてはヨハネ14:26、15:26、16:7,8、16:13,14などを読みましょう。イエス様が語られたことを思い出させず、イエス様の栄光を現わさないなら、どんなにすばらしく見えても「聖霊」の働きではありません。

 イエス様に派遣されて、その代理、お使いの役目を果たすとは、どんなことでしょうか?23節を読みましょう。それは、イエス様による罪の赦しを宣言することです。派遣された人が罪を赦す力や権威を持っているわけではありません。その人が、ある人にイエス様を救い主と信じる人の罪は赦されると伝え、その人がイエス様を信じるなら、「その人の罪は赦され」(赦すのは神様)、イエス様を信じないなら、その人の罪はそのまま残るのです。

Ⅲ.むすび

 思うように過ごせず、希望が見えない気分の重さが加わってくる「いま」という時代に、イエス様を信じている人と信じていない人との違いとは何でしょうか。置かれている「状況」には違いはないでしょう。しかし、与えられている「関係」にこそ、大きな違いがあります。それは、救い主イエス様によって与えられた天の父なる神様との「関係」です。以前は神様に背いて神様の怒りのもとにあったのに、その罪をすべて赦され、神様の子どもとされた親密な「関係」です。同じイエス様を信じている人々とは神様の家族とされたという「関係」です。今週私たちは、イエス様が与えてくださった「平安」、この「関係の平安」を感謝し、味わいながら過ごしましょう。このイエス様からの「平安」とともに遣わされている私たちのそれぞれの場所で、与えられている仕事や学び、家事や育児、介護や看病など、そして、生かされていることそのものを通して、イエス様の代理としての役目を果たせるように、イエス様を指し示す存在として過ごしましょう。

(記:牧師 小暮智久)