2021年4月4日 礼拝説教「日曜日の朝」

聖書: ルカの福音書 24章1~12節

Ⅰ.はじめに

 教会の前のチューリップが咲いています。去年の12月に球根を植えました。球根というのは不思議ですね。かたちは小さなたまねぎか、にんにくに似ていて、生きているようには見えません。でも、植えると根と芽が出ます。チューリップの球根は寒い時に植えるとよいようです。あの球根の中に、芽を出すいのちがあったのだと思うと不思議です。

 今日は「イースター」と呼ばれる日で世界中のキリスト教会がお祝いしています。最近はスーパーなどにもイースターのお菓子コーナーなどがあって「イースターって何の日?」と説明されている所もあります。イエス様というお方が十字架にかかられて私たちのために死んでくださりお墓に葬られてから、死んでいるように見える球根からいのちが始まるように、本当に死なれたのですが3日目に復活された日、それがイースターです。イエス様が死から復活されたのは今から約2000年前の日曜日の朝でした。日曜日の朝、人々はどんな様子だったのか、今の私たちとどんな関係があるのか、『聖書』に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.日曜日の朝、お墓に行った人たち(ルカの福音書 24章1~3節)

 私たちがお墓へ行くとしたら、なぜでしょうか?それは、身近な家族などが死んでお骨がそこに納められており、その人のことを思い出し、大切にしたいからでしょう。「週の初めの日」(1節)、今の日曜日のことです。朝早くお墓に行った人たちがいました。「彼女たち」(1節)とは、イエス様が約3年前に働きを始めたころからついて来た女の人たちでした(23:49)。彼女たちは「準備しておいた香料を持って」、イエス様のおからだにそれをぬろうとしてお墓に来たのです。当時のユダヤのお墓は、今の日本のお墓とは違い、ほら穴のような所に布で包んだ亡くなった人のからだを納め、入り口は大きな石でふさぐというかたちでした。それが、なんと石が墓からころがされ、中が見えるのです(2節)。中に入ると、あるはずのイエス様のおからだがありません(3節)。彼女たちはどう思ったでしょうか。

 彼女たちが日曜日の朝、お墓に行ったのは、おとといの金曜日にイエス様が十字架で死なれ、墓に納められるのを見ていたからです(23:55)。今の私たちも、日曜日の朝、イエス様が私たちひとりひとりのために十字架で死んでくださったことを思い起こしましょう。

2.日曜日の朝、思い出したこと(ルカの福音書 24章4~8節)

 お墓に来た彼女たちが、あるはずのイエス様のおからだがなくて、どういうことだろうと思っていると「まばゆいほどの衣を着た人が二人」(4節)近くに来ました。神様の使い、天使でしょう。彼女たちはどうしたか?5節前半を読みましょう。こわくて、顔を伏せるのは自然です。作り話でなく、本当に起きたことだと実感できます。天使は何を伝えたのでしょうか?5節後半~7節を読みましょう。それは、イエス様は復活されたという事実でした。さらに「思い出しなさい」という命令でした。何を思い出すのでしょうか?それは、「イエス様は前に、十字架につけられ、3日目によみがえると言われたではないですか。そのみことばを思い出しなさい」ということでした。彼女たちは思い出せたでしょうか?8節を読みましょう。彼女たちが思い出したのは、イエス様のどんなことばでしょうか?

7節の脚注の①にルカ9:22とあります。そして、9:22を開くと「三日目によみがえらなければならない」とあり、その脚注には多くの箇所が書かれています。その4番目に18:33とあり、そこを開くと「人の子は3日目によみがえります」というイエス様のみことばがあります。彼女たちは、これらのみことばを思い出しました。そして、復活されたイエス様本人には会っていませんが、イエス様が復活されたことを信じたのです。

 今の私たちも、この時の彼女たちのように、復活されたイエス様を見てはいません。しかし、日曜日の朝、イエス様のみことばを思い出すなら、イエス様がご自分のことばの通りに復活されたことを信じることができるのではないでしょうか。

3.日曜日の朝、伝えたこと(ルカの福音書 24章9~12節)

 お墓から帰って彼女たちはどうしたでしょうか?今の私たちならお墓から帰って家族に「お墓の草が伸びていたから、草取りをしてきたよ」と報告するかもしれません。9節を読みましょう。「これらのことをすべて報告した」とは、お墓にはイエス様のおからだはなく、よみがえったと言われ、思い出すように言われてイエス様の復活の約束を思い出したということを、イエス様の弟子たちに伝えたのでした。今の私たちも、日曜日の朝、イエス様が復活されたことをみことばによって、身近な人々に伝える者とされましょう。

 これを聞いたマタイやヨハネなど、イエス様の弟子たちはどう思ったでしょうか?11節を読みましょう。「この話はたわごと」、ばかばかしいことばだと思えて、彼女たちを信じず、つまり、イエス様の復活を信じなかったのです。これも、あり得ないことを聞いた時のごく自然な態度ではないでしょうか。これが作り話でなく、本当のことだと実感できます。その中でペテロという弟子だけは走ってお墓に行きます。12節を読みましょう。確かめよう、観察しようというのは科学的な態度とも言えます。同じ弟子でも性格や態度や行動が違うのもごく自然であり、書かれていることが現実に起きたことだと実感できます。

 その日曜日のおそらく夕食の頃、イエス様はご自身を弟子たちにあらわされます。36~43節を見ましょう。幽霊だとおびえたのも自然な態度です。そんな弟子たちに、イエス様はご自分との手と足を見せられました。そこには十字架につけられた時の釘のあとがあったでしょう。まだ不思議がる弟子たちにイエス様は焼き魚を食べて見せられたのでした。

Ⅲ.むすび

 日曜日の朝、私たちは、イエス様が私たちひとりひとりの罪のために十字架で確かに死んでくださり、お墓に葬られたことを思い起こしましょう。それだけでなく、私たちは日曜日の朝、イエス様がみことばの通り死から復活されたことを思い出しましょう。そして、日曜日の朝、私たちはイエス様が復活されたことを身近な人に伝え、この知らせを分かち合いましょう。約2000年前に休日でなかった日曜日がやがてお休みの日となり世界に広まったのは、イエス様が復活された日を記念して人々が集まり神様を礼拝するようになったからです。イエス様が復活された日曜日の朝ごとに集まって、これからも神様を礼拝し、イエス様の復活により罪と滅びからの救いが完成したことを感謝しましょう。

(記:牧師 小暮智久)