2020年10月25日 礼拝説教「神の国はだれに?」

聖書: ルカの福音書 6章 17~26節

Ⅰ.はじめに

 先日私は「親知らず」が1本虫歯になっているというので抜きました。その時にこの歯を、なぜ「親知らず」と言うのか,調べてみました。いくつか説明があるようです。その一つは、この歯が二十歳を過ぎてから生え、親がこの歯の生え始めを知らないからだというもの。もう一つは、「人生50年」と言われた昔には、自分の子にこの歯が生えたのを知らずに亡くなる親が多かったから「親知らず」と言うのだという説明。この「親知らず」は4人に1人は全く生えてこないそうで、生えてきても曲がっていたり虫歯になりやすかったりで抜かれることも多いようです。なぜ、子どもの歯の生えかわりの時よりも遅く、大人になってから生えてくる歯があるのか、神様の創造のみわざは不思議だなあと思います。

 その神様が私たちのためにお送りくださった救い主イエス様のなさったこと、語られたことにも、不思議なことが多いのではないでしょうか。今日は、2017年5月から少しずつお聴きしている「ルカの福音書」の前回お聴きした所の続きから、共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.群衆とイエス様(ルカの福音書 6章17~19節)

 「それからイエスは」(17節)とあります。その前に書かれているのは、イエス様が山で祈られ、そこに弟子たちを呼び、12人を選ばれた場面です(12~16節)。イエス様は「彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった」(17節)のでした。

 そのとき、イエス様と弟子たちの目に飛び込んできたのは、何でしょうか?それは「おびただしい数の人々」(17節)です。この人々はどこから来たのか?南のユダヤ全土やエルサレムから、北のツロやシドンの海岸地方から、さまざまな人々がそこに来ていたのでした。この人々は何のために来たのか?18節を見ましょう。「イエスの教えを聞くため」と「病気を治してもらうため」でした(18節)。この人々のめあてはイエス様であり、イエス様の教えを聞きたい、病気を治してもらいたい、そのような一心でそこに来ていたのです。

 イエス様がなさったことは何か?19節を見ましょう。人々はイエス様にさわり、イエス様から力が出て、すべての人をいやしたのでした。イエス様がなさったことは不思議です。

 もし、私たちがその場にいたとしたら、どうするでしょうか?イエス様のことばを聴くでしょうか。イエス様にふれて治してもらうでしょうか。私たちはイエス様にお祈りすることで、自分の願いや聞きたいことなどを今もイエス様にお伝えすることができるのです。

2.不思議に思える幸せ(ルカの福音書 6章20~26節)

 イエス様は話し始められます(20節)。それは「どんな人が幸いか」で始まり、6章の終わりまで続きます。その内容は「山上の説教」(マタイ5~7章)とよく似ていますが、こちらの方が短く、違う点もあります。こちらは平らな所でお話しになったので「平野の説教」と呼ばれるようです。おそらく、「山上の説教」とは違う時に語られたことばでしょう。

 その最初の部分は「どんな人が幸いか」が20~23節で、「どんな人が哀れか」が24~26節で述べられています。そのどちらも、とても不思議なことばに思えます。

 まず、イエス様は「貧しい人たちは幸いです」(20節)と言われます。常識的な考え方では「富んでいる人たちは幸いです」と言われるでしょうが、正反対です。ここでの「幸い」という言葉はhappy(嬉しい,幸せな)ではなく、blessed(祝福された)です。イエス様は貧しさそのものを祝福だと言ったのではありません。富も貧しさもどちらも神の御名を汚す場合があるからです(箴言30:7~9)。「旧約聖書」では「貧しい者」とは「神に頼る人を指す表現でした(詩篇40:17)。ですから、イエス様がここで言われた「貧しさ」とは経済的な貧しさというよりは、力における貧しさ、自分の無力さを自覚しているという意味だと思われます。その人は、なぜ幸せで祝福されているのか。「神の国はあなたがたのものだからです」(20節)。自分の力の貧しさ、心の貧しさを認める人が、イエス様を救い主と信じ、神の国に入れます。だから,幸せなのです。神の国はだれに与えられるか?神の国は貧しい人に与えられます。自分にはその資格がないと認める人に、神の国は今、与えられるのです。

 次にイエス様は「今飢えている人たちは幸いです」(21節)と言われます。ここでイエス様が「飢えている」と言われたのは、食べ物に対してだけでなく、神様との関係において自分の足りなさを感じているという意味ではないでしょうか。なぜ、幸いなのでしょうか?「あなたがたは満ち足りるようになるから」(21節)です。自分の足りなさを神様が満たしてくださるのを経験することができるという意味で、幸せなのです。

 「今泣いている人たち」(21節)というのも、神様との関係において自分の至らなさや罪や弱さを悲しんでいる人たちのことではないかということが見えてくるように思われます。

 「人々があなたがたを憎むとき、…あなたがたは幸いです」(22節)とはどういう意味か?これはイエス様のゆえに迫害を受ける時のことです。躍り上がって喜べと言われるのは「天においてあなたがたの報いは大きい」(23節)と地上での扱いは天で逆転されるからです。

 では、「哀れ」と言われるのはどんな人たちでしょうか?イエス様は「富んでいる」、「今満腹している」、「今笑っているあなたがた」は哀れだと言われました(24~25節)。これも不思議なことばです。「富んでいる」人たちとは「必要なものはすでに持っている」という人々でしょう。その問題点は、先ほどの「貧しい人たち」と同じように、単に経済的な富だけでなく、自分は力においても富んでおり、自分の力や努力で「神の国」に入れると思っているということではないでしょうか。「今満腹している」人たちは自分の欠けに気がついていないことが哀れなのでしょう。「今笑っている」人たちを哀れと言われたイエス様は、笑いそのものを否定されたのではありません。イエス様は生活を楽しみ、よく笑ったに違いありません。ただ、神様との関係において自分には成長の余地がないと、自己満足に陥って笑っているとすれば、その笑いは哀れだと言われたのではないでしょうか。

 「人々がみな、あなたがたをほめるとき」は哀れだとイエス様は言われます(26節)。私は時々「今日の説教は恵まれました」と言われることがあります。それは嬉しいことです。でも、私はこのみことばを思い出すことがあります。「彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです」(26節)。偽預言者は人々がほめるようなことばを語り、主のことばを語りませんでした。むしろ、主のことばを語る時、人々は説教者を憎み、排除し、ののしり、けなすということ(22節)が起こることもあるのではないでしょうか。ですから私は、「今日の説教で心を刺されました」とか、時には「聞いていて反発したくなりました」という言われる方が、今日のイエス様のみことばに沿っているのかなと思わされます。

Ⅲ.むすび

 「神の国」はだれに与えられるのでしょうか?それは「貧しい人」にです。今週様々な意味で貧しい者として神様の前に歩み、「神の国」を経験しましょう。

(記:牧師 小暮智久)