2020年8月16日 礼拝説教「安息日の主」

聖書: ルカの福音書 6章 1~11節

Ⅰ.はじめに

週報にも書かれているように、来週の日曜日、8月23日は私たちが属するフリーメソジスト教会の誕生日です。当日私は夏期休暇をいただいて別の教会で礼拝をささげている予定ですので、今日そのことを少しだけお話ししたいと思います。キリスト教会の源流をさかのぼればイエス様に行き着きます。イエス様の約束通りに、弟子たちによって最初のキリスト教会は歩み始めました。西暦1000年ごろ、ローマ帝国が東と西に分かれたときに、キリスト教会も東と西に分かれます。東の教会はギリシャ正教会やロシア正教会など、西の教会はローマ・カトリック教会です。西のローマ・カトリック教会では16世紀に改革が起こり、分かれた教会はプロテスタント教会と呼ばれるようになりました。その中のひとつ、英国での改革は独特で、カトリックとプロテスタントの中間と言われ、東の教会の伝統も大切にする英国国教会(聖公会)となりました。その司祭であるジョン・ウェスレーたちが始めた改革がメソジスト運動と呼ばれ、のちにメソジスト教会となりました。メソジスト教会はアメリカにも広がりましたが、次第にはじめの精神から離れてしまいます。その中で「本来のメソジストに帰り、全き聖化とその体験を大切にしよう」と主張した人々がいましたが、教会から除名されてしまいます。その人々の中で約60名が1860年8月23日、ニューヨーク州ナイアガラ郡ペキンという町の郊外のリンゴ園のキャンプ場に集まり、会議を開いて組織されたのがフリーメソジスト教会で、初代の監督としてベンジャミン・テトス・ロバーツという人が選出されました。今年でちょうど160年となります。

 日本でのフリーメソジスト教会の伝道は1895年7月から淡路島で始まりました。大阪市内では1903年に大阪日本橋教会の伝道が始まり、阿倍野区ではこの教会の前身・丸山教会が1923年に伝道を始めます。あと3年でこの教会は伝道開始100年の大きな区切りの年を迎えます。キリストの教会として、イエス様のことばを聴き、伝えたいと願います。

今日は、2017年5月から少しずつお聴きしている「ルカの福音書」の前回、3月29日にお聴きした所の続きから、ともに神様のことばを思いめぐらしましょう。

Ⅱ.みことば

1.正しさを主張する人々(ルカの福音書 6章1~5節)

 「ある安息日に」(1節)とあります。「安息日」とは、仕事を休み、神様を礼拝し、神様と共に過ごす日と『聖書』で定められ、当時は土曜日でした。7日間のうち1日を休みの日とするというリズムは『聖書』から来ています。イエス様はその日、麦畑を通っておられました。弟子たちは麦の穂を取って、手でもみながら食べていたのです。今の感覚では他人の畑の麦を勝手に食べてはいけないと思えますが、当時それは許されていました(1節の脚注②,申命記23:25,手で摘むのはOK,鎌は禁止)。すると、ある人々が弟子たちを非難したのです。2節を読みましょう。「安息日にしてはならないこと」とあります。当時は「安息日」を守るために、歩くのは何メートルまでとか、してはならないと人間が定めた規則がたくさんありました。パリサイ人とは神様の命令に徹底的に正しく従おうとする人々で、弟子たちがしたことは刈り取りや脱穀という仕事になるから規則違反だと責めたのです。

さて、どうなるでしょうか?弟子たちが責められた時、イエス様が答えてくださいました。私たちが責められる時も、イエス様がお答えくださるなら、心強いですね。イエス様が言われたエピソードは、3節の脚注①にあるように「旧約聖書」のⅠサムエル記21:1~6にあります。それは、神の戒めでは祭司だけが食べられるパンを、空腹であったダビデたちが食べたという出来事です。空腹という人間の必要は神の戒めを正しく守ることよりも優先し、誰もダビデをとがめなかったという実例を、イエス様は示したのでした。

イエス様はここで、パリサイ人たちの「なぜ?」という問いには直接答えず、正しさを主張して人を責める態度を取り上げ、問いかけたように思えます。そして彼らに言われました。「人の子は安息日の主です」(5節)。「人の子」とは「旧約聖書」では時に救い主を指し、ここではイエス様ご自身のことです。イエス様は安息日の主であられ、その過ごし方について権威を持っておられるのです。私たちはイエス様の権威を認めるでしょうか?

2.正しさへの問いかけ(ルカの福音書 6章6~11節)

 別の安息日のことです。場所は「会堂」(6節)という今の教会のような所です。安息日ごとに礼拝があり、イエス様はその日、「旧約聖書」から教えておられました。そこに右手(他の福音書では「片手」、ルカは医者らしく「右手」と描写)の不自由な人がいたのです(6節)。

 律法学者やパリサイ人たちはイエス様をじっと見つめています(7節)。何のためでしょうか?「彼を訴える口実を見つけるため」(7節)でした。律法違反で訴えるためだったのです。

 イエス様はどうされたでしょうか?8節を見ましょう。イエス様はあえて真ん中で、ことを行なおうとなさいました。あたかも彼らに挑戦するかのようです。9節を読みましょう。「安息日に律法にかなっているのは何か?」という問いかけです。これは、彼らが「自分たちこそが正しく、イエスは間違っている」と考えるその正しさへの問いかけと言えるのではないでしょうか。「自分が正しいと思っているその考えは、ほんとうに『聖書』が言っている意図、神様の望んでおられる趣旨に沿っているのか」という問いかけです。

 彼らから答えはありませんでした。それが彼らの答えとも言えます。イエス様はどうされたか?10節を見ましょう。イエス様は、おことばでその人の右手をいやされたのです。

 一方、訴える口実を見つけるために、イエス様を見つめていたパリサイ人たちはどうしたか?11節を読みましょう。彼らは怒りに満ちた。自分は正しいと思う人は、間違った人を見て怒りを感じるということが多いのではないでしょうか。自分は正しいという考えをつきつめると殺人に至ると言われます。自分だけが正しいとすれば、他の人はみな間違っており、他の人の存在を許せなくなるということでしょうか。パリサイ人たちはまさにそうであり、やがてイエス様を十字架につけ、殺すことになります。

私たちにも多かれ少なかれ、自分を正しいとし、他者を否定する考えがないでしょうか。そのような自己中心の罪のために、イエス様は十字架で死んでくださり、神様のさばきを受けてくださいました。そして、3日目に復活し、すべての人に「救い」を用意してくださいました。イエス様の復活が日曜日だったのを記念して日曜日は「主の日」と呼ばれ、礼拝の日とされ、日曜日は休日ということが4世紀ごろから世界中に広がっていきました。

Ⅲ.むすび

このあと「主の日」についての讃美歌54番を歌います。「主の日」はイエス様がよみがえられた日、喜び、慰め、憩いの日、神様が天地創造のわざを「それは非常に良かった」(創世記1:31)と完了し、休まれた安息の日です。「安息日の主です」と言われたイエス様の権威を認めて、この「主の日」を大切に過ごすお互いとされましょう。

(記:牧師 小暮智久)