2020年7月26日 礼拝説教「神の家族の回復」

聖書: 創世記  45章1~15節

Ⅰ.はじめに

私たちにとって「人間関係の悩み」は多いのではないでしょうか。それは、職場で、学校で、近所の人との間での悩みかもしれません。また、もっと身近に親子関係で、自分が育てられる中で親から受けた傷があるかもしれませんし、また介護する親や介護してくれる子どもとの間で悩むこともあるかもしれません。さらに、その悩みとどう向き合うかという「自分の気持ちとの付き合い方」も大きな課題でしょう。このような人との関係の中で生きる私たち人間に関心を向けているのが『聖書』だとも言えるのではないでしょうか。

私たちの教会は、2004年6月から「創世記」を、礼拝で少しずつともにお聴きしてきました。16年かかってあと5章というところまで来ました。この「創世記」は、天地創造、地や海や植物、月や星、魚や鳥や動物、そして人間の創造から始まって、罪の始まり、ノアの箱舟、バベルの塔などの出来事を語り、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフというイスラエルの民の先祖の人生を詳しく記しています。後半の25章以降は、ヤコブ一家の家族としての歪みと回復が扱われており、ヨセフが登場する37章以降は特にヨセフの兄たちの罪と神の家族の回復が取り上げられていると言えるのではないでしょうか。前回2月16日にお聴きした神様のみことばの続きのところから今日は、家族や身近な人との関係の回復のために、神様はどのように働いてくださるのか、ともに思いを巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.自分を遣わしたのは(創世記 45章1~7節)

 「ヨセフは」(1節) とあります。この人は紀元前1914年頃、西アジアに生まれた実在の人です。父はヤコブ、ヨセフには10人の兄と一人の弟がいました。ヨセフは17歳の時「家族が自分にひれ伏す夢を見た」と言い、兄たちから憎まれエジプトへ行く商人に売られます(37章)。彼はエジプトで奴隷となり、その主人の妻に無実の罪を着せられ、監獄に入れられます(39章)。そこで、ある事がきっかけで王が見た夢を解き明かし、囚人から総理大臣に抜擢されます。その夢の通りに7年間は大豊作、次の7年間は飢饉となり、彼は豊作の時に食糧を蓄えさせます(40~41章)。父ヤコブがいる所でも食糧がなくなり、10人の兄たちは食糧を買いにエジプトへ行きます。総理大臣のヨセフには兄たちがわかりましたが、兄たちにはヨセフだとわかりません。ヨセフは兄たちをわざとスパイだと疑い、一人を人質とし末の弟を連れて来いと試します(42章)。彼らは再び食糧を買いに末の弟を連れて戻って来ます(43章)。ヨセフは、父の元に帰る兄弟たちの末の弟ベニヤミンの袋に自分の銀の杯をわざと入れて、盗みの罪のぬれぎぬを着せます。ヨセフはベニヤミンに奴隷となるよう迫りますが、兄のユダは自分が身代わりになると申し出たのでした(44章)。

ヨセフが手の込んだ芝居を打ったのは、兄たちが自分を売り飛ばしたことをどう思っているか試すためでした。兄たちが自分の罪を悲しみ、自分が弟の身代わりになるとまで言う兄たちの本心に触れて、ついにヨセフは自分のことを明かします。3節を読みましょう。約22年ぶりの対面に兄弟たちはことばがありません。4,5節を見ましょう。ヨセフは自分を売ったことを恨むどころか、「そのことで心を痛めないで」とまで言います。なかなかこうは言えないでしょう。なぜヨセフはこう言えたのか?自分がエジプトで総理大臣になれたからではありません。「神はあなたがたより先に私を遣わし」(5節)と、「私は」ではなく「神は」と「神は私をどう導かれたのか」を受け取り直したのでこう言えたのではないでしょうか。このあと「神は私を」というヨセフの人生観を表わす表現が続きます(7,8,9節)。

私たちにも「神は自分を導かれた」と言えることがあるのではないでしょうか。例えば、私が教会に行き、イエス様を信じたのは、先天性の尿道の病気のゆえに小学校で男子がふつうするように用を足せずいじめられ、つらかったのが大きなきっかけでした。かつてはいじめた人々に仕返ししたいと思いました。が、今は、神様はあの時つらかった私だからこそ、神様の愛を嬉しく感じられるように、「いつくしみ深き 友なるイエスは」と歌ったイエス様を信じたいと思えるように導いてくださったのだなあと振り返ることができます。そして、あの頃の友だちよりも少し先に私を救いに導いてくださったイエス様を、10年ごとに開かれる小中学校の同窓会(次は還暦の年)で、自然体で証ししたいなあと思うのです。

2.急いで父上のところに(創世記 45章8~15節)

 「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです」(8節)とヨセフは兄たちに言いました。ヨセフは今ここにいる理由を、「人々に振り回されたから」とか「偶然が重なって」とは言いません。「私をここに遣わした」、自分をここに派遣したお方がいる。それは「あなたがた」、つまり自分に関わった人々の思いをはるかに超える「神なのです」。

 「私をここに遣わしたのは神である」という自分の人生についての明確な理解は、なすべきことをも明確にします。9節を読みましょう。兄たちに託した父への伝言もまた、「私は」で始まらず、「神は」で始まっています。つまり、単に息子が異国で出世したから父親を呼び寄せるということではありません。「神は」、このようにされたので、これが神の計画ですから、「ためらうことなく私のところに」(9節)と言ったのです。それは、父と子と孫、羊と牛など、イスラエルという名を神様からいただいたヤコブの一族のエジプトへの移住ということになります(10~11節)。神様から名前をつけられたヤコブの家族が、先にエジプトに遣わされたヨセフによって、エジプトへと遣わされて行くとも言えるでしょうか。様々な問題や偏りを抱えながらも、「神は」と告白して導かれていくこの人々は、まさに「神の家族」「神の民」です。それは、イエス様を信じて洗礼を受けて「キリスト教会」のひとりとされる今の私たちが「神の家族」「神の民」であることにつながっています。

 ヨセフと兄弟たちとの約22年ぶりの和解の様子がここに描かれています(14~15節)。それは、「神の家族」の回復の始まりと言えるのではないでしょうか。私たちもまた、「神の家族」としての回復を、これからも様々な場面で経験していくことができます。

Ⅲ.むすび

 私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活されたイエス様を信じて「神の子ども」、「神の家族」とされることは、神様がすべての人に願っておられるご計画です。この神様のご計画が、ヨセフのように自分が人から受けた苦しみや様々なことを通して、自分に実現するのを私たちも経験することができます。また、自分が生まれ育った環境やこれまで人間関係の中で傷つき悩んだことを、「私は」ではなく「神は」と受け取り直すとき、「私をここに遣わしたのは神なのだ」と言えるようにされるのではないでしょうか。私たちお互いが、今日ここに、共にいるのは偶然ではなく、神様の働きかけによるのではないでしょうか。「神の家族」は最初から歪みや問題が全くないのではありません。神様はこれからも「神の家族」の回復のために私たちに働きかけ続けてくださいます。

(記:牧師 小暮智久)