2023年3月19日 礼拝説教 「ただ一つの道」
聖書: ヨハネの福音書 14章1~6節
Ⅰ.はじめに
春は別れと出会いの季節だと言われます。学校の卒業式などはお別れの時、入学式などは出会いの時でしょう。新しい学校やクラスで、初めて会う人に、自分をどのように紹介するでしょうか?学校だけではありません。たとえば、この教会で初めてお話しする人に、自分をどのように紹介するでしょうか?たいていは「わたしは、こぐれともひさです」と自分の名前を言うでしょうか。それとも「わたしは、ぼくしです」とか「わたしは、関東で生まれました」とか言うかもしれません。自己紹介の中身は、自分の何を相手に知ってほしいかということとも関係があるでしょうね。
今日は「合同礼拝」、教会学校の今の単元は「主イエスの自己証言」で、イエス様が「わたしは・・・です」と言われた『聖書』の箇所を取り上げています。3月5日は「わたしは良い牧者(よい羊飼い)です」、先週は「わたしはよみがえりです」と言われた場面でした。今日先ほどともにお聴きした『聖書』の場面では、イエス様はご自分のことをどのように、言われたでしょうか?そのことは、今の私たちとどんな関係があるでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.不安な時の約束(ヨハネの福音書 14章1~4節)
『聖書』のこの場面は、「最後の晩餐」という絵で知られているイエス様と弟子たちとの夕食の時です。この翌日、イエス様はユダヤの指導者たちに逮捕され、十字架にかけられたのでした。その夕食の間にイエス様は、弟子の一人が自分を裏切ると言われ、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」(13:33)と、もうすぐ弟子たちと別れることになると言われました。それを聞いた弟子たちは、どんな気持ちだったでしょうか?
おそらく、不安になったのではないでしょうか。その時、イエス様はどう言われたか?1節をお読みします。私たちが不安な時、イエス様は今もこのように語りかけ、ご自分を信頼するように招いてくださいます。そして、安心の保証として、約束をくださいました。2~4節をお読みします。それは、このあと弟子たちと別れるのは「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)ためで、また来て、「わたしのもとに迎えます」(3節)という約束です。しばらく別れるのは、弟子たちを見捨てるからではなく、ずっと一緒にいられるようになるためだとイエス様は言われたのです。イエス様と私たちが一緒にいられる場所、それはイエス様が「わたしの父の家」(2節)と言われた「神様の家」で、私たちが天国と呼ぶことが多い所です。私たちがそこに行ける用意をするために、イエス様がこれからどこに行くのか、「その道をあなたがたは知っています」(4節)とイエス様は言われたのでした。
2.わからない時には(ヨハネの福音書 14章5~6節)
イエス様が言われたことを、弟子たちはわかったのでしょうか?5節をお読みします。トマスという弟子は、イエス様がこれからどこへ行くのか、その道がわかりませんでした。イエス様がこれからどこへ行くのか、その「父の家」、天国への道がどこにあるのか、よくわからないのは、今の私たちも同じではないでしょうか。小学校で先生が「わからないことがあるのは、はずかしいことではありません。わからない時には、聞けばよいのです」と言われたのを思い出します。本当はわからないのに、知っているふりをしてはいないでしょうか。本当は自分ではできないのに、むりしてできるふりをしてはいないでしょうか。正直になって「自分にはわからない」「自分にはできない」と認めることから、新しい世界がひらけていくのではないでしょうか。私は、ほかの弟子がだまっている中で、トマスが「わかりません」と正直に言い、質問してくれたのをうれしく思います。よくぞ、聞いてくれたと思います。そのおかげで、イエス様の次のような答えが聞けるのです。
6節をお読みします。「父のみもと」とは「父の家」(天国)であり、神様とのつながりが回復されることです。「わたしがそのための道だ」とイエス様は言われました。悪いことをせずよいことをすることが、神様の子どもとされ、天国へ行ける道ではないのです。天国は、自分のしたいことが何でもできる所ではなく、イエス様が「わたしの父の家」と言われたように神様の家です。天国は、神様を中心に過ごす人たちの家で、神様に関心がなく自分を中心とする人は行けませんし、もし行けてもこわいか退屈な所ではないでしょうか。神様は、私たちがご自分の子どもとされ、天国に来ることを願っています。しかし、私たちは誰でも神様を中心にせず自分を中心として生活しているので、天国に住めません。それで、イエス様が私たちのために天国に住めるように、神様をしめ出してきた私たちひとりひとりの代わりに十字架で死んでくださり、3日目に復活されたのです。イエス様はご自分のいのちをかけて、私たちが神様の家に住めるための用意をしてくださったのです。
イエス様は「わたしが・・・真理であり、いのちなのです」とも言われました。真理とは、うそでなく、どんな時代でも変わらず確かであることです。いのちであるとは、イエス様が、自分の力では神様を中心に生活できない私たちの新しいいのちになって、私たちを神様に喜ばれる人へとつくり変え、育ててくださるということです。
しかも「わたしを通してでなければ」(6節)と言われました。私たちは「ほかの宗教を信じていても、天国に行けるの?」と聞かれたら、どう答えるでしょうか?「天国へ行ける権利」というふうに考えると「イエス様を信じる人だけが行けるのは平等ではない、差別だ」と考えたくなるかもしれません。しかし、これは権利の問題ではないのです。「だれも父のみもとに行くことはできません」(6節)とイエス様は言われました。そもそも、この地球上のだれも、父のみもと、天国には行けないのです。だれひとり、きよい神様の子どもになれる人はなく、神様と会ったら滅びるしかありません。それなのに、神様の方から手をさしのべ、イエス様を「天国への道」としてくださいました。ですから、権利ではなく「恵み」なのです。あちらからの、神様からの「恵み」です。「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」ということばは、天国へはほかに脇道もぬけ道もなく、ただ一つの道しかないと示しています。それだけでなく、イエス様を救い主と信じ受け入れ、その道を歩んでいる人が父の家に行けるのは確実だと保証しています。
Ⅲ.むすび
ですから、「わたしが父の家(天国)への道だ」と言われるイエス様を、信じましょう。イエス様を信じると、不思議なことに、私たちの毎日の歩み方が変えられていきます。なぜなら、自分にとってイエス様が新たな道となったからです。神様とつながる道であるイエス様が、私たちを父の家(天国)にふさわしい過ごし方に変えてくださると言ってよいのではないでしょうか。天国の国民として日々を過ごしましょう。そして、天国への道、神様とつながる道はただ1つです。私がそう言うのではなく、イエス様がそう言われたのです。あなたの大事な身近な人に、この「ただ1つの道」を伝えましょう。
(記:牧師 小暮智久)