2023年1月15日 礼拝説教 「祈る人の危機」
聖書: ダニエル書 6章6~10節
Ⅰ.はじめに
私たちは「神様、今日一日、お守りください」とお祈りすることが多いと思います。それは、よいことです。しかし、それは何のための「守り」なのでしょうか?自分が危ない目に合わないように、病気やケガにならないようにという「守り」でしょうか。もちろん、自分のための「守り」を祈ってよいのです。しかし、イエス様を信じて神様の子ども、神様の民とされた者は、それだけではなく、危険な目にあったとしても、その中でも神様に従えるための「守り」を祈る必要があるのではないでしょうか。自分の思い通りにならなくても、「その中でイエス様に信頼できるように、イエス様に従えるようにお守りください」と、イエス様のための「守り」を祈るようにと、私自身も変えられたいと願います。
今日は子どもと大人の「合同礼拝」で、教会学校の今の単元は「捕囚と帰還」です。紀元前600年頃にイスラエルの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、約70年後に帰って来る時代を取り上げていて、「困難な中でも神に従う」というテーマです。私たちも今、様々な困難に囲まれています。困難な中で、神様に従うにはどうしたらよいのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.大臣たちの策略(ダニエル書 6章6~10節)
「この大臣と太守たちは」(6節)と書かれているのは、イスラエルの民が連れて行かれたバビロンを、メディアとペルシアという国が支配するようになり、その国の大臣たちです。
イスラエルの民の中にダニエルという人がいて、その国で王様に信頼され、3人の大臣の一人になっていました。ほかの二人の大臣は、王様があまりにもダニエルをほめて高い位につけようとするのがいやで、ダニエルを訴えるために意地悪な相談をしました。彼らはダニエルが毎日神様にお祈りしているのを知っていたので、王様に一つの禁止の命令を出してもらうようにお願いしたのです。それはどんな命令でしょうか?7節をお読みします。それは今から30日間、いかなる神様にでも人にでも、王様以外に対してお祈りしてはいけない、王様以外にお祈りした人は獅子(ライオン)の穴に投げ込まれるという命令でした。
ダニエルはどうしたでしょうか?10節をお読みします。その命令を知った上で、いつものように、ふるさとのエルサレムの方に開いている窓で神様にお祈りしたのです。窓ぐらい閉めてもいいのにと思いますが、ダニエルはいつものように祈りました。何を祈ったのでしょうか?ふるさとエルサレムの回復のため、このときも主の栄光があらわれるため、困難や危険の中でも主が導いてくださり従えるようにと祈ったのではないでしょうか。
2.ダニエルの危機(ダニエル書 6章11~18節)
ダニエルがいつものように神様にお祈りしているのを見た人々は、王様に訴えます。13節をお読みします。「ユダからの捕虜ダニエルが王様の命令を無視しています」という訴えでした。王様はダニエルをライオンの穴に投げ込みたくありませんでした。何とか助けようとしましたがダメでした。王様であっても、一度出した命令は変更できなかったのです。それで、どうなったか?16節をお読みします。ダニエルはライオンがいる穴に投げ込まれてしまったのです。王様はダニエルがすぐにライオンに食べられ、死んでしまうのではないかと、心配で、心配で、ごはんも食べず、眠ることもしませんでした(18節)。
お祈りしている人が危ない目や困難に会うということがあるのだと考えさせられます。それは、神様を知らず、無視している人々からの迫害や攻撃や悪口などかもしれません。お祈りしている人こそが、悩んだり、困難や危険な目にあうことがあるのです。神様の守りとは、困難や危ない目にあわないことではありません。神様の守りとは、その困難や危ない目に会う中で、その人が神様に信頼し従えるための「守り」なのです。
3.守られた結果(ダニエル書 6章19~27節)
王様にとってその夜はとても長く感じたでしょう。ダニエルはどうなっただろうか、ライオンの穴の中で、ダニエルはかみ裂かれ、死んでしまったのではないか、と気が気でなかったでしょう。王様は夜が明けるとすぐにライオンの穴へ行きました。19~20節をお読みします。この呼びかけに、答える声はあったでしょうか?21~22節をお読みします。なんと、ダニエルは生きていました。何の傷もありませんでした。「彼が神に信頼していたからである」(23節)というのがその理由です。神様は、危険や困難の中でダニエルが神様に信頼し続けられるように、守ってくださいました。本当に不思議なことですが、ダニエルはライオンの穴の中で無傷だったのです。そして、王様は、ダニエルが信じる神様に対して「この方こそ生ける神、永遠におられる方」(26節)と言ったのでした。
この結果、ダニエルを守られた神様はすばらしいと、神様の栄光があらわされ、王様もこのお方こそが生きておられる神様だとあがめたのでした。
Ⅲ.むすび
ダニエルが経験したことは単なる昔話ではありません。「祈る人の危機」は今もあります。それは、迫害かもしれませんし、神様を中心として導かれる生活から少しずつ離れさせて自分の考えを基準とする生活にしてしまう誘惑かもしれません。そのような危険や困難の中で、どうしたら神様に信頼し続けられるか?私はイエス様のことばを思い起こしました。ルカ9:23をお読みします。「だれでもわたしについて来たいと思うなら」とあります。強制ではなく、招きです。私のために十字架で死んでくださったイエス様になら、私はついて行きたい。その人は「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」とあります。イエス様よりも自分を優先する思いを捨てる。自分の十字架を負うとは死刑になることです。必要ならイエス様のために死ぬことです。洗礼を受ける時に神様に誓ったのはそのことです。日々、一日一日、そのようであればイエス様について行けます。自分のために十字架で死んでくださったイエス様のためなら、そうできるのではありませんか。
(記:牧師 小暮智久)