2021年6月6日 礼拝説教「主の導きとは」
聖書: 申命記 31章7~8節
Ⅰ.はじめに
「導き」ということは日常の生活で経験することではないでしょうか。たとえば、誰かに道案内をしてもらうことや、車のカーナビというのも導きでしょう。朝のテレビ番組に多いようですが、占いのコーナーというのも今日1日に何か確かな導きがほしいと願っている人々の気持ちに沿うものなのかもしれません。『聖書』が占いなどを禁じている(レビ19:26)のは、それが神様から私たちを離れさせ、主の導きに従わないようにさせるからで、誰もが願う確かな導きは、神様こそが私たちに『聖書』によって示していてくださいます。
今年度の私たちの教会のテーマは「主よ、導いてください」、テーマのみことばは申命記31章8節です。「主の導き」とはどのようなものなのでしょうか?ともに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.ともに歩む導き(申命記 31章8節)
先ほどお聴きしたのは、モーセという人が語った場面です。イスラエルの民の先祖アブラハムの孫ヤコブとその一家は、今から約3900年前の紀元前1875年頃に西アジアの死海という湖の西側のカナンという所から、エジプトに移り住みました。理由は大飢饉です。ヤコブの息子ヨセフがエジプトの総理大臣となり、その政策によりエジプトにだけは食べ物があったからです。ヤコブの子孫はエジプトで増え、エジプトの王様はイスラエルの民を奴隷として働かせました。イスラエルの人々は神様にエジプトからの救いを訴えます。神様はお祈りに答え、モーセを指導者とし、紀元前1445年頃(あるいは約180年後)、イスラエルの民はエジプトを脱出します。実際は何週間かで約束の土地カナンに行ける距離なのに、神様を信じられず恐れたイスラエルの民はなんと40年もの間、荒れた所をさ迷い、エジプトを出た時の世代はほとんど死んでしまいました。それでもついにカナンの目前、ヨルダン川の近くまで来ることができ、そこでモーセが語ったのがこのことばです。
主の導きとはどのようなものか?8節は原文では「主こそが…」が冒頭にあって強調されています。ここからわかるのは、①「あなたに先立って」という導き方です。ただ説明するだけでなく、先立って導いてくださるのです。私の神学校の恩師・舟喜 信先生の著書『破れ口に立つキリスト者』(教会図書貸出コーナー蔵書)のエピソードは目に浮かぶようです。カーナビのない時、人を車で送った夜、道に迷い、通りかかった車の人が説明してくれたがわからずにいると逆方向だったのに「ついて来てください」と車で先導してくれたそうです(p.226-227)。初めてで不安な時も、主ご自身が先に立って歩んでくださいます。②「あなたとともにおられる」という導き方です。アメリカ在住の服部嘉明先生という方が同じ教団の阪南教会の牧師であった時の「申命記」の礼拝説教が『幸せを考える』という本になっており、この箇所の説教でこう語られました。「イエスが地上を去って行かれるという不安の中にいた弟子たちに、イエスが最後に語られた言葉も、『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』(マタイ28:20)でした」(p.215)。主の導きとは、ことばだけで指示して、あとは本人任せではなく、主がともに、いつもすぐ近くにおられるという導き方なのです。③「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(8節)という導き方をされます。つまり、途中で放り出したり、やめたりせず、最後まで責任をもって、いつでも離れずに一緒にいると強調されているのではないでしょうか。
2.従う愛を養う導き(申命記 31章7節)
主の導きが目指すものとは何か?その一つは、すべての人が救われて神様の子どもとされることです(Iテモテ2:4)。イスラエルの民は次のリーダーのヨシュアにより約束の地カナンに入りますが、のちに偶像を拝み主から離れてしまいます。それでも神様は見放さず、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として救い主を送ってくださいました。それがイエス様です。イエス様が私たちのために十字架で死んでくださり、3日目に復活されたことにより、このイエス様を救い主と信じ受け入れる人は神様の子どもとされます。主の導きが目指すのはこのことであり、そのために様々な機会を備えておられるのです。もう一つは、神様の子どもとされた人がきよめられ、全き愛の生活をすることです(Iテサロニケ4:3)。神様は、イエス様を信じた人を聖なる者となり、きよめられるようにと導きます。この「きよめ」とは単に悪口を言わないとか不正をしないなど「悪いことをしない」というだけでなく、強調点は「全き愛」、神様を愛し、自分と同じように人を愛することにあります(マルコ12:30,31 「週報」にある先週の聖書通読箇所)。そうなれるよう、神様は導くのです。
つまり、主の導きとは私たちを愛してくださる主を、私たちも愛して従うための導きではないでしょうか。モーセは次の指導者ヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ」(31:7)と言いました。この先、様々な困難が予想できたからでしょう。イエス様を信じて神様の子どもとして歩み続けようとすると、私たちも様々な問題を経験します。その時に必要な強さ、雄々しさとは何でしょうか?モーセが死に、ヨシュアが実際に指導者となり、ヨルダン川を渡って約束の地に入ってまずぶつかった問題は、エリコという強い町でした。このエリコの町と戦って勝つ必要があります。不安や緊張があったであろうヨシュアは不思議な経験をします。ヨシュア記5:13~15を読みましょう。ヨシュアは武装した兵士に「あなたは敵か?味方か?」(13節)と聞きますが、兵士は「いや、わたしは主の軍の将」(14節)と答えます。主に導かれるとは、主は自分の敵か味方かではなく、自分は主の味方か敵かが問われることであり、「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」とお聞きして従うことが求められるのです。強さとは、このための強さではないでしょうか。主を信じ、従う強さ、それは主への愛の強さです。主の導きは、主に従う愛を養う導きです。
私が大学4年で卒業後の進路について主の導きを祈り求めていた時、子どもたちに伝道する団体で働くために神学校へ行こうと決めましたが、自分にできるかどうか、生活は成り立つかなど不安が大きくなり、就職のために面接を受けて落ちるなどゆきづまりを覚え、信仰そのものも不安定になったことがありました。そんなある夜、ふとんの中で自分の弱さ、ふがいなさを泣きながら祈り、私はとうとう自分にできるかどうか、生活はどうなるかなどの心配を神様におまかせし、無条件で自分を明け渡したのでした。翌朝、自分にだけ向かっていた思いが神様の方へ向くように変えられていたのです。その後入学した神学校で、自分にはとても無理だと思っていた牧師への主の導きを受け、今ここにおります。
Ⅲ.むすび
今の私たちの毎日の生活で、様々な判断をする時に、自分の思い通りになるかどうか、自分に都合がよいかどうかではなく、共におられる主は自分に何を告げられるだろうか、と祈り求めましょう。それが何であろうと主と人々への愛ゆえに従える強さ、雄々しさを、このあと「聖餐の恵み」を思い巡らす中で、ともにいただきましょう。
(記:牧師 小暮智久)