2021年7月11日 礼拝説教「自分も献身者」

聖書: ローマ人への手紙  12章1~2節

Ⅰ.はじめに

 熱海での土石流の被害の様子を見るたびに心が痛みます。もし、熱海にお知り合いの方がおられるならば、心が動くだけでなく、指や手が動いて電話をかけるかもしれません。「献身」ということばがあります。手元の辞書では「自分の利害を考えず力をつくすこと」とありました。「献身」とはまさに、自分の損得に関係なく、居ても立ってもいられず、からだを動かさざるを得ないということではないでしょうか。

 今日は私たちの教会が属する日本フリーメソジスト教団の「伝道献身者奨励日」です。教会で「献身」と言うと、牧師や宣教師になることだけを指すイメージがあります。しかし、今日の『聖書』のことば通り、「献身」はイエス様を信じるすべての人に勧められていることです。牧師や宣教師になる人のことは「伝道献身者」と呼び、区別します。今日はイエス様を信じるすべての人に勧められている「献身」についてみことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.からだを神にささげよ(ローマ人への手紙 12章1節)

 この手紙は、パウロという人が第3回伝道旅行のコリント滞在中に西暦57~58年頃、いつか行きたいと願うローマの教会の人々に書いたと言われます。1節は「ですから」で始まっています。これまで1~11章で言われてきたことの全部を理由として、「ですから、次のことを勧めます」と言っているのです。1~11章に書かれていることとは、「神の福音」(1:1)です。創造者である神様と私たち人間の罪、イエス様の十字架での死と3日目の復活、イエス様を信じる人が義と認められ、神様の子ども・相続人とされること、さらには、今は神様に退けられたかに見えるイスラエルの人々もみな救われるなどの「福音」です。それほどの神様のあわれみによって勧められていることは何か?それは、「献身」です。

 だれが、からだを神様に献げるのか?この「あなたがた」(1節)とはローマ教会の信徒のすべての人、今の時代にイエス様を信じる人全員です。牧師になる人だけではありません。

 なにを、神様に献げるのか?「からだ」を献げるのです。教会で「救いを求める魂が来られますように」と祈ることがあります。間違いではありません。しかし、魂だけが教会に来るのでしょうか。魂も心もからだももったその人が教会に来るのです。この「からだ」とはその人の全体を意味します。私たちは魂や心だけでなく、からだを苦労して動かして礼拝に来ます。私たちが神様にささげるのは、この「からだ」であり、自分の全体です。「神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として」(1節)とあります。「生きた」とは、失敗もつまずきもあり得ることを意味します。人が作った機械は失敗しませんが、生きてはいません。ささげると自由な意志がなくなるのではありません。神に喜ばれることを心から願えるのは機械ではなく、生きた自由な意志があるからです。私たちはこの「からだ」で日常生活を過ごしています。「からだ」を献げるとは生活の全体を神様にささげることです。ささげるとどうなるか?「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(1節)。からだを神様にささげることが「礼拝」となるのです。私たちは、日曜日の午前10時半からの主日礼拝式を出発点として、1週間の全生活を「礼拝」として過ごすのです。この「礼拝」ということばは「奉仕」とも訳せるそうで、礼拝こそが奉仕だと言えるでしょう。

2.自分を変えていただきなさい(ローマ人への手紙 12章2節)

 イエス様を信じている人ならば、ここまでのパウロの勧めを拒む理由があるでしょうか。「神様というお方は、ご自身の大切なひとり子を私たちのために十字架にささげてくださった。そのおかげで、私はただイエス様を信じるだけで神様の子どもとしていただいた。だから、自分も神様に自分のからだをささげ、1週間の全生活を『礼拝』として過ごそう」と願う人は多いでしょう。しかし、そう願った途端、妨げがやって来ます。それは「この世」(2節)と言われている私たちが置かれている現実です。そこには効率主義や競争社会、自己実現や自分の利益だけを最優先する考えなど、神様に反することが多くひそんでいます。だからこう言われます。「この世と調子を合わせてはいけません」(2節)。

 そうは言われても私たちは、教会を一歩出ると、あるいは教会の中にいても、この世の現実に流されそうになります。自分のしたいことや自分が喜ぶことを選びたくなります。どうしたらよいか?「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」(2節)。「心を新たにする」とは、イエス様を救い主と信じて新しく生まれること、あるいは、すでにイエス様を信じた人ならば「自分は、神様によって新しく生まれた者なのだ」と再度自覚することです。そうすることで、「自分を変えていただきなさい」(2節)ということが起きるのです。この「変えていただく」とは神様が与えてくださる変化であって「聖化」とも言われると松木治三郎氏は述べています(『ローマ人への手紙 翻訳と解釈』,p.436)。私たちフリーメソジスト教会は、人がイエス様を信じた時から「聖化」という神様の子どもとして成長していく変化が始まり、神様の子どもとして成熟する時を「全き聖化」「全き愛」と呼び、その後も「聖化」という神様の働きは続くと『聖書』から受け取っています。

 自分は新しく生まれた者だと再確認して自分を神様にゆだね「心を新たにする」ことで、「自分を変えていただ」くとどうなるのでしょうか?2節の「そうすれば」から読みましょう。「神様のみこころは何か」を見分けるようになると約束されています。「神のみこころ」とは、何が良いことか、何が神に喜ばれることか、何が完全であるのかということです。この世と調子を合わせたくなり、自分のしたいことや思うことを選べる自由があるなかで、神様に喜ばれることを選ぶことが、自分の喜びとされていくのではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 私たちが教会に来るようになったきっかけは、それぞれ違うでしょう。礼拝後の短い時間にお互いに話してみると、神様の導きの豊かさを実感するのではないでしょうか。自由に選べる中で、私たちはイエス様を信じ、洗礼を受けると、クリスチャンとして、教会員としての新しい生活が始まります。そして、洗礼を受けたすべての人に、これも強制ではありませんが、「献身」が勧められています。この世と調子を合わせず、神のみこころを見分けて生活するために、です。神様は、洗礼を受けた人が「献身者」としてそれぞれの仕事や学びや家事や育児や介護などに携わることを望んでおられます。「献身者」として、公務員、自営業、会社員、引退後の者、主婦、学生などとして生活するのです。また、神様は牧師や宣教師となる人をお召しになり、それに応じた人は「伝道献身者」となります。その人は神学校に入り、神学生育英献金として献げられた奨学金を受け、学びや実習で訓練され、卒業後、教団の任命によって教会に派遣されるのです。神様は、この手紙を書いたパウロのように、迫害者からも伝道献身者を起こすことがおできになります。私たちの予想を超えるすばらしいみわざに期待し、教団に将来の牧師が起こされるようにお祈りしましょう。自分のからだを主にささげ、献身者として歩みましょう。

(記:牧師 小暮智久)