2021年5月2日 礼拝説教「主よ、導いてください」
聖書: 申命記 31章7~13節
Ⅰ.はじめに
ゴールデンウィークに入り、5月最初の主の日を迎えました。去年のゴールデンウィークに「来年の今ごろはどうなっているかな」と考えていたかもしれません。その「来年の今ごろ」になりました。1年前の私はコロナの状況が少しはよくなっていると考えていたと思いますが、実際には同じ緊急事態宣言でも状況は厳しいようです。先のことを考えて、その通りになるかどうか、私たち人間にはわからないことが多いのではないでしょうか。
先ほどお聴きしたのは「主ご自身があなたに先立って進まれる」という今年度の教会の主題聖句を含む、申命記31章7~13節です。コロナの状況を含め、自分自身のこれからの生活や、私たちの家族・親族やこの教会の将来、私たちが住む町や大阪・関西・日本のこれからを、私たちは先立って進まれる神様に導いていただくことを願うでしょうか?そのように願うには、このお方は自分の考えを超えて最善をなしてくださるとの信頼が必要ではないでしょうか。今日の説教題、「主よ、導いてください」は今年度の教会の主題です。私たちがそのように祈れる拠り所、実際のみわざ、将来の展望を思い巡らしましょう。
Ⅱ.みことば
1.主の約束のゆえに(申命記 31章7節)
「旧約聖書」の最初の書物、「創世記」に登場するアブラハムという人の子孫であるイスラエルの民が、寄留先のエジプトで人口が増え、モーセという指導者によりエジプトを出ます。この「出エジプト」という出来事やその後の旅も、導いたのは神様でした。人々は神様を信頼しなかったゆえに40年も荒野を放浪し世代は変わり、ついに約束の地カナンを目前とする所までやって来ました。そこでモーセが民に告げたことばが「申命記」です。
ここまで旅を続けて来た拠り所は何か?それは神様の約束でした。「主がこの民の父祖たちに与えると誓われた地」(7節)とあります。例えばアブラハムに神様はこう言われました(創世記12:7)。また、神様は、アブラハムによってすべての民族が祝福されると約束されました(創世記12:3)。神様から離れていた今の私たちも、アブラハムとその子孫を通して救われ、神様の民とされるという約束があったのです。モーセの後継者ヨシュアとイスラエルの民が、カナンの地に入っていくのは、神様の約束のゆえでした。それは、アブラハムによってすべての人々が祝福され神様の民とされるための「はじめの一歩」となるような約束の実現でもありました。神様は今も、すべての人が救われて神様の民とされることを望んでおられます(Iテモテ2:4)。「主よ、導いてください!」と祈ろうではありませんか。
2.主の先導によって(申命記 31章8節)
神様は約束されるだけではありません。8節を読みましょう。「主ご自身があなたに先立って進まれる」とあります。初めての所へ行く時、誰かが先に立って案内してくれたら、どんなに心強いでしょうか。さらに、「主が・・・ともに・・・。主は・・・見放さず、・・・見捨てない。」と「主が」と神様ご自身の存在が繰り返され、主の同伴が語られています。神様が共におられ、歩調を合わせ、見放さず、見捨てないと言ってくださるとは、何と愛情あふれる神様のご配慮でしょうか。実際にこのあと、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、約束の地に入るときに様々な困難にあいますが、そのつど、神様が共におられ、見捨てないという約束を経験していきます。私たちは「ヨシュア記」でそれを読めます。
アブラハムによって世界のすべての民族が祝福されるという神様の約束は、実際にはどのように実現していったのでしょうか?それは、アブラハムの子孫たちに約束され与えられたカナンの地に、神の御子イエス様がアブラハムの子孫として今から約2021年前に生まれたことによります。イエス様は父なる神様から救い主として派遣され、神様に対する私たちのすべての背きの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、3日目に父なる神様は御子イエス様を復活させ、救いのみわざを成し遂げ、私たちに提供してくださっています。Iヨハネ4:9~10を読みましょう。神様は私たちに救いを強制しません。だれでも神様との交わりの回復を願う人を、その人がイエス様を救い主と信じ受け入れることにより神様は喜んで救い、ご自身の子ども、ご自身の家族、ご自身の民としてくださいます。
約束し誓われるだけでなく、実際に行動される神様に、「主よ、導いてください!」と申し上げようではありませんか。それは、導かれたらそのように動き、導かれたら自分の考えを変え、生活の仕方を変えるなど、「神様に対して従順かどうか」が問われるお祈りです。
3.将来を展望して(申命記 31章9~13節)
このあと、約束の地での将来のことが語られます。約束の地に入るのはイスラエルの民にとって長い旅路のゴールのように思えますが、新しい生活の始まりです。彼らはその地で、神様の民として新しい生活を始めていくのです。イエス様を信じて、洗礼を受けることは、ゴールではありません。それは、それまでとは全く違う新しい生活のスタートです。ちょうど、イスラエルの民が約束の地で神様の民として新しい生活を始めたように、洗礼を受けてから私たちは神様の約束に支えられ、約束の確かさを経験しつつ神様の民として新しい生活を始めていくのです。洗礼を受けた方々に問います。洗礼を受けてからあなたの生活は新しくされましたか?神様の約束の確かさを日々経験しておられますか?そのためにはまず、今日、『聖書』を開き、神様の前に出て、みことばを読もうではありませんか。
11節を読みましょう。ここには、約束の地に入ってから神様の民が、主の前に集まり「みおしえ」、主のみことばを共に聴くことが命じられています。男も女も子どもも寄留者も、です(12節)。何のためか?神様の民が、主を恐れ、みことばのすべてを守り行なうためです。「これを知らない、彼らの子どもたち」(13節)とは、これまでのことを知らない、将来の世代の人々のことでしょう。ここに、神様の民の将来への展望が広がっています。「子ども」が12,13節と繰り返されることにも、将来の世代への主のまなざしを感じます。将来の世代の人々が、生きる限り、その人生の全体で、主を恐れ、みことばを守り行なうために、みことばが読まれ、聴かれなければならない。そのために、この教会の将来を、私たちとさらに次の世代の人々を、「主よ、導いてください!」と祈ろうではありませんか。
Ⅲ.むすび
今日は「聖餐を覚えて」の礼拝。「聖餐」の中に、主の約束、主の先導、将来の展望が凝縮されていると言えないでしょうか。主の救いの約束は、イエス様が十字架にかかられたことで実現し、その救いの実現を私たちは主が再び来られる日まで、その将来を待ち望みつつ告げ知らせていきます。今週も、主の約束のゆえに、主の先導によって、将来の世代のために、「主よ、導いてください!」と心を合わせて祈りましょう!
(記:牧師 小暮智久)