2020年8月2日 礼拝説教「荒野に水を」
聖書: イザヤ書 43章19~21節
Ⅰ.はじめに
どのような思いで8月を迎えられたでしょうか?私たちの教会は、新型コロナウイルスに関わる政府の「緊急事態宣言」が5月下旬で解除されたのを判断材料として、5月末から礼拝堂に集まる礼拝を再開しました。その頃は大阪府での新規感染者がゼロの日もありましたが、最近はかなり増えてきています。今のこの状況について受け止め方はさまざまで、教会によっては再び礼拝を自粛しているところもあり、そうでないところもあります。
そのような中で、私たちの教会に今年のみことばとして「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている」(イザヤ43:19)が与えられていることの意味を思いめぐらしています。私が2020年度のみことばを祈り求めたのは昨年末からで、まだ日本では新型コロナウイルスは広がっておらず、1月の教会役員会で了承されて2月の教会総会で議決された時も、今のようになるとは想像しませんでした。今の私たちが置かれている現実を誰よりご存知の神様が、このようになる前から「わたしは新しいことを行う」と言われるならば、ではその「新しいこと」とは何だろう、神様は何を「新しいこと」として行なわれるのだろうか、と思いをめぐらしています。ともに、みことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.今、それが芽生えている(イザヤ書 43章19節)
このイザヤ書は、イザヤという預言者によって語られ、書かれました。預言者とは神様のことばを預かって人々に伝える人です。このイザヤは、西アジアのユダという国に実在した人で、紀元前740年~紀元前680年まで約60年間活動した預言者です。
イザヤが神様から預かった「わたしは新しいことを行う」ということばの「新しいこと」とは何か?それは直接には、ユダの人々が神様から離れ偶像を拝むようになって神様にさばかれ、バビロニアという外国に捕虜として連れて行かれ、そこからの「救い」、そこからふるさとに帰って行く、国としての「回復」のことです。その際に人々が旅をする荒野に、神様は「荒野に道を、荒れ地に川を設ける」(19節)と約束されるのです。どこまでも同じ風景で目印もない荒野に、迷わずに故郷に行ける道を、歩きやすい道を作ってくださる。また、乾き切って飲み水のない荒れ地に水の豊かな川を設けてくださる。神様が行なわれる「新しいこと」とは、捕虜からの「救い」、神の民の「回復」のことだと言えるでしょう。
しかし、神様が行なう「新しいこと」はそれだけにとどまりません。神様は約2000年前にイエス様をこの世界に送られ、イエス様が私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活されたことにより、イエス様を救い主と信じる人に、罪と滅びに定められていた捕虜のような状態からの「救い」を、神の民としての「回復」を与えてくださることも含まれます。さらには、「新しい天と新しい地」(ヨハネの黙示録21:1)の約束が『聖書』にある通り、イエス様を信じた私たちが「神の家族」とされ、イエス様が再び来られるときに、完成された「神の国」に迎え入れられ、顔と顔を合わせてイエス様とお会いし、先に召された私たちの愛する人々と再び会えることも、神様が行なう「新しいこと」には含まれます。
「今、それが芽生えている」(19節)とあります。「新しいこと」の芽生え、その兆しは当時どのようなものだったか?ユダの人々がバビロニア帝国に捕虜となるとイザヤが告げたことは、実はまだ起きていませんでした。まだ捕虜になってないのに、そこからの解放を言われてもピンと来なかったかもしれません。しかし、北隣の兄弟の国イスラエルは紀元前722年、このみことばが語られた頃にはすでにアッシリアという国に人々が捕虜とされていました。それを「新しいこと」の芽生えと見ることはできたのではないでしょうか。
今の私たちは、神の家族としてやがて迎える「新しい天と新しい地」での生活の、何をその芽生えや兆しと、今受け取れるでしょうか?やがて新しい地で生活する者として、「みことば」を読むようになり、「お祈り」するようになったことも、その芽生えのひとつでしょう。みことばから気づいたことを互いに分かち合う点でも成長させていただきましょう。
2.わたしの民に飲ませる(イザヤ書 43章20~21節)
神様が行なわれる「新しいこと」の中で、「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」(20節)ということが起きると言われています。神様が造られた野の獣たちが荒野に水が川となって流れ、それを飲めるゆえに神様をあがめるということでしょうか。ジャッカルというのは耳慣れないですが、キツネによく似て、大型の犬より小さく、砂漠や廃墟をすみかとする動物だそうです。これらの動物たちも神様をあがめる。それはイエス様が再び来られる日、新しい天と地において完全に実現し、動物たちも造られた通りの存在として回復されます。そこでは先に召された愛するペットたちとも再び会えるのです。
神様が行なわれる「新しいこと」の中で、さきほどは「荒野に道を、荒れ地に川を」(19節)と言われていました。「道」と「水」。どちらも『聖書』の大切なテーマです。ここで再び言われるのは何か?20節後半を読みましょう。ここでは「荒野に水を」という、とうていあり得ないことが、しかも水たまり程度の少しだけの水ではなく、「川を流れさせる」という豊かな水が荒れ地にもたらされ、バビロンからふるさとへ、この地上から天のふるさとへと帰っていく神様の民に、神様はその水を飲ませてくださるのです。
「新改訳2017」という翻訳の脚注に20節の③に関連箇所としてイザヤ49:10とあります。さらにその脚注には10節の関連の箇所としてヨハネの黙示録7:16,17とあります。「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示録7:17)。それは「週報」の聖書の通読箇所の先週7/27(月)の所です。読まれましたか?実に慰めと励ましに満ちたみことばです。
Ⅲ.むすび
新型コロナウイルスによる様々な不安と困難の中にある私たち神の民に対して、神様が行なわれる「新しいこと」とは何か?しかも「それが芽生えている」と言われる、その新しいことのきざしとは何か?それは、イエス様がすでに私たちのために十字架に死んでくださり、葬られて3日目に復活されたことによって成し遂げられた神様による救いのわざです。そして、このイエス様を信じる人は神様の家族、神様の国の民とされます。荒野のように希望の見えないときも、神様はその荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、イエス様が牧して養い、「みことば」を読み、「お祈り」することを通して、いのちの水の泉で潤してくださいます。「聖餐」を受けることも、「新しいこと」につながる「芽生え」でしょう。それは、主が再び来られる日まで繰り返され、新しい天と地が来るのを指し示すと言えるでしょう。主に潤され、導かれて、神の民として旅を続けましょう。
(記:牧師 小暮智久)