2024年4月21日 礼拝説教 「舟の右側」

聖書: ヨハネの福音書 21章 1~14節

Ⅰ.はじめに

 日本の暦では先週の金曜日、4月19日が「穀雨」という日でした。「穀雨」とは、地上の様々な穀物が元気に育つよう、恵みの雨がしっとりと降り注いでいる頃のことで、昔からこの日を目安にして種まきや田植えが行なわれてきたそうです。

 キリスト教会の暦では、今は「復活節」と言います。今年は3月31日がイースター、イエス様の復活日で、50日後の聖霊降臨日(ペンテコステ)までの7週間を「復活節」と呼び、復活されたイエス様に思いを向けて過ごす季節です。私たちのために十字架で死んでくださったイエス様。それで終わりではなく、3日目に復活されたイエス様。しかし、当時の弟子たちは復活をなかなか信じられず、イエス様は何度もご自身を現わし、復活されたことをお示しになりました。今日は、先週の礼拝で共にお聴きした「ヨハネの福音書」の続きの場面から、復活のイエス様と今の私たちとの関わりを共に思い巡らしましょう。

Ⅱ.みことば

1.必要をご存じのお方(ヨハネの福音書 21章1~8節)

 今から約2000年前の西アジア、場所は「ティベリヤ湖畔」(1節)、ガリラヤ湖とも呼ばれるユダヤ地方の北の方にある湖の岸辺です。

 そこにいたイエス様の弟子たちとは誰か?ペテロとトマス、ナタナエル、ゼベダイの子たちとはヤコブとヨハネ、ほかに二人の弟子ですから7人がそこにいました(2節)。ペテロとゼベダイの子たちはかつて、この湖で魚をとる漁師でした。ペテロが「私は漁に行く」(3節)と言います。なぜ、そう言ったのか。弟子をやめて漁師に戻ったわけではなく、その時食べる物がなかったからでしょう。ほかの弟子たちも「私たちも一緒に行く」と言って出かけます。彼らは自分たちのこれまでの経験と技術で、以前と同じように魚がとれるだろうと期待していたでしょう。結果はどうだったか。「その夜は何も捕れなかった」(3節)。プロだった漁師が少なくとも3人はいたのに、人間の力の限界でしょうか。

 そんな失意の夜が明け始めたころです。「イエスは岸辺に立たれた」(4節)。しかし、弟子たちにはそれがイエスだとはわかりません。エマオに向かう弟子たちも、近づいて来て共に歩くお方がイエス様だとは最初はわかりませんでした(ルカ24章)。私たちにもそのような時があるのではないでしょうか。共におられるイエス様に気づいていない時が。

 岸辺のその人は声には優しい響きがあります。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」(5節)。イエス様は私たちの現実を、乏しさを、必要をご存じなのです。彼らは「ありません」と答えます。私たちもイエス様に、自分の必要を率直に訴えましょう。すると、その人は不思議なことを言われる。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」(6節)。今の私たちにとって「舟の右側」とは何でしょうか?思いめぐらしたいと思います。言う通りにするとどうなったか?6節をお読みします。その時に「イエスが愛されたあの弟子」、ゼベダイの子のひとり、ヨハネが「主だ」と気づいたのは興味深いのではないでしょうか。

 私たちも時に努力しても報われず、疲れ果て希望を失うことがあるかもしれません。そんな時こそ、私たちのために十字架で死なれ、3日目に復活されたイエス様は、私たちの現実や必要を誰よりもご存じで、「舟の右側」という新たな道を示してくださいます。

2.必要を備えてくださるお方(ヨハネの福音書  21章9~14節)

 「こうして彼らが陸地にあがると」(9節)とあります。そこに何があったか?9節をお読みします。炭火と魚とパンがあったのです。これらはどこから来たのか。

 隔週水曜日午前の聖書の学びは、「マルコの福音書」を、用意された質問によって、みんなで考える学びをしています。自分だけで読む時には気がつかないことや思いがけない発見もあり楽しいです。炭火やパンがなぜ湖畔にあるのか、この場面をみなで考えてみるのも意味があると思います。イエス様が奇跡を行なって準備したのだと説明する人もあります。私は、炭火はイエス様がご自分で起こし、魚はご自分で釣ったのかなと想像します。私はここを読むと、春浅くまだ寒い季節に瀬戸内海の家島諸島の西島で行なわれていた教団の中高生アウトドアキャンプに参加した時のことを思い出します。まきを拾い、火を起こして自炊をし、さんびを歌い、『聖書』のメッセージを聞き、テントで泊まるキャンプです。まきがしめっていると火をつけるだけでもどんなに大変か。イエス様はこの時、どのようにして火をつけたのでしょうか。書かれてないのでわかりませんが、イエス様は手間をかけ、労を惜しまず、疲れた弟子たちのために、朝の食事を用意してくださったのです。

 「今捕った魚を何匹か持ってきなさい」(10節)と主は言われます。弟子たちがイエス様に近づいて、遠慮なくその場に参加できるようにするためではないでしょうか。魚が153匹と書かれているのはなぜか。当時知られていた魚の種類が153だったとか様々な説明があるようですが、彼らが数えたリアルな数字ではないでしょうか。これだけの魚が捕れたのがリアルであるのと同じように、私たちの罪のために十字架で死なれたイエス様が復活されてご自身を現わしたのも現実のことだと印象づける数字だと言えるでしょう。

 「さあ、朝の食事をしなさい」(12節)とイエス様の声が響きます。『聖書』にはイエス様が、様々な人々と、弟子たちと、食事を共にする場面が多くあります。クリスチャンの管理栄養士の方がこう言われました。「聖書で『食事を共にする』ということばは、親しく人格的に交わりひとつとなることを意味します。人は食べることで、三位一体の神の交わりにあずかるものとして、共に育てられていきます」(『百万人の福音』2015年10月号)。同じヨハネが書いた黙示録3:20にはこうあります。「だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。ヨハネが聖霊に導かれてこう書いた時、湖の岸辺でのこの朝食を思い出していたかもしれません。今の私たちも、イエス様を救い主として信じ受け入れたならば、神様の子どもとされ、イエス様と食事を共にする親しい交わりの中に、父と子と聖霊なる神が互いにもっておられる三位一体の神の交わりの中に、迎え入れられているのです。

 弟子たちはイエス様と共に食事をしながら、どんな気持ちだったでしょうか?イエス様が捕まったときに逃げてしまって悪かったなあと認め、悔い改め、イエス様に信頼してついて行こうという思いを新たにしたのではないでしょうか。イエス様と共に食事をするような親しい交わりの中で、私たちも思いや行動を新たにされる必要があるのではないでしょうか。具体的には、毎週の「礼拝」もその機会ですし、新年聖会や関西聖会などの「聖会」もそのための特別な機会ですから、大切にして参加するようにしたいものです。

Ⅲ.むすび

 教会は、新会堂の建築という大きな課題を前にしています。自分たちには無理だと思えても、それを認めたうえで、私たちの現実と必要を誰よりもご存じの主に信頼し、主との親しい交わりの中で、主のお心を求めて、ともに進みましょう。

(記:牧師 小暮智久)