2023年2月12日 礼拝説教 「自分の姿に気づく」
聖書: エズラ記 10章1~5節
Ⅰ.はじめに
教会の受付の向かい側に貸出用の図書の一部があります。そこに毎月、『百万人の福音』(バイブル&ライフ)という月刊誌が置かれています。ぜひお読みください。2月号は「『ありのまま』で愛されていると『そのまま』ではいられない」という特集です。自分がありのままで神様に愛されていると、神様に喜ばれるように変えられずにはいられないという意味でしょう。少し言い換えると、イエス様を信じて救われると、主に喜ばれるようにと「きよめ」「全き聖化」を受けて、成長せずにはいられないということではないでしょうか。
今日は子どもと大人の「合同礼拝」、教会学校の今の単元は「捕囚と帰還」です。紀元前600年頃にイスラエルの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、約70年後に帰って来た時代のことです。故郷に帰り、最初にしたのは神様を礼拝する神殿の再建でした(エズラ記3章)。しかし、建築工事は妨害され16年間も中断します(4章)。その後、預言者ハガイとゼカリヤによって神様のことばが伝えられ工事は再開し、ついに神殿は完成します(5~6章)。そこへ、祭司であり、みことばの学者のエズラという人がイスラエルに帰って来て、人々と共に神殿で礼拝をささげます(7~8章)。エズラはどんな気持ちだったでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.涙ながらのお祈り(エズラ記 10章1節)
エズラは礼拝のあと、しばらくしてから「神の宮」の前に戻り、「涙ながらに祈り告白して」(1節)います。この涙は何か?それはうれし涙ではなく、悲しみの涙でした。なぜか?それは、人々の礼拝の姿とふだんの生活とがかけ離れ、神様に喜ばれないことをしていたからです。今の私たちはどうか?礼拝の時もふだんの時も神様に喜ばれる姿でしょうか?
エズラがこの時知らされたイスラエルの人々のふだんの姿とは、外国の女性と結婚していたことです。まことの神様を信じず偶像を礼拝している外国人の女性と結婚すると、自分も神様から離れてしまうので、神様はその時代のイスラエルの民に外国人との結婚を禁じていました。しかし、この時、神殿で礼拝したイスラエルの民の中で、リーダーたちも含め、多くの人が偶像を拝む外国人と結婚しており、その点で神様に従っていなかったのです。今でもイエス様を信じて洗礼を受けた人は、同じイエス様を信じている人と結婚することを神様は願っています。そうでないと、神様からかんたんに離れてしまうからです。
エズラはその罪を犯していませんでした。しかし、イスラエルの民の罪のひどさにショックを受け、涙ながらに祈り、告白していたのです(実際の祈りは9章)。その姿を見て、人々はエズラの所に集まって来て、自分の姿、自分の罪に気がつき、泣いたのでした(1節)。
2.自分の姿に気づいたら(エズラ記 10章2~5節)
自分の姿に気づいたら、私たちはどうするでしょうか?「『ありのまま』で愛されていると『そのまま』ではいられない」ということばの通り、人々はそのままではいられなくなったのでした。2~3節をお読みします。エズラが涙ながらに祈るのを見て、イスラエルの民のひとりシェカンヤという人は、自分たちが外国人と結婚したことは、神様に対する罪だと気づきました(2節)。そう気がついたならば、そのままではいられなくなります。彼らは「これらの妻たちと、その子どもたちをみな追い出しましょう」(3節)と離婚を決心し、実行します。今なら「それは差別だ」と問題になるかもしれません。しかし、私たちも、イエス様の十字架と復活に現わされている神様の愛に、自分がありのままで愛されていると受け止めたならば、今の自分の生活の何かが神様に喜ばれないと気づくと、そのままではいられず、悔い改めて行動を変えるようになるという点では同じではないでしょうか。
私は小学6年の時に埼玉県の教会で洗礼を受け、高校生になってから信じていることと生活とが一つになり始めたと思います。大学生になって教会学校教師の奉仕を始めました。3年目ぐらいに、ほかに若い人がいないこともあり、教会学校の校長になるよう頼まれました。役員会にも出るようになり、会議が長く、何だか牧師に怒られているような雰囲気がいやで、終わるととても疲れました。それで、教会学校の会議(教師会)はせめて、楽しくやろうと決めました。次の月の教会学校の会議は、分級や夏のキャンプについて自分なりに工夫して考えたことを話し、冗談も言い、皆さんの意見も聞き、楽しく進めたのです。2~3か月目の教会学校の会議の日でした。その日も楽しく会議を進めていたつもりでした。しかし、メンバーの一人である牧師はイスを並べ横になったのです。「なんだ?先生のあの態度は!」と腹が立ちましたが、そのまま会議を進め、終わったのは4時を過ぎていたと思います。皆さんが帰ったあと、牧師は「君は自分が『困った人』と思われていることに気づいてないのか?」と私に言いました。「君は自分だけが楽しく会議をしていて、みんなは会議が長すぎて迷惑に思っているのがわからないのか!」と牧師は私を叱ったのです。私はその時、自分の姿に気がつき、他の人の目に自分がどう見えているかがわかりました。次の会議の時には皆さんにあやまり、会議が適切な時間で終わるように変えました。
私たちはお互い、自分のことが見えているでしょうか?自分の姿は、自分ではなかなか気づかないものです。人から言われて初めて気づくかもしれず、あるいは、イスラエルの人々のように、エズラが涙ながらにお祈りしている姿を見て気がつくものかもしれません。
Ⅲ.むすび
礼拝は、自分が養われ恵まれるだけの場ではなく、自分がみことばによって問われ、教会が問われる場でもあります。礼拝に出て、自分が何も変わらずに家に帰るとしたら、教会堂という場所に自分のからだは来ていても、礼拝を神様にささげていないのかもしれません。神様に今、自分をさぐっていただきましょう。神様が「してはいけない」と言っていることを、してはいないでしょうか?反対に、神様が「しなさい」と言っていることを、行なっているでしょうか?この教会はどうでしょうか?神様に喜ばれないことを行なわず、神様に喜ばれることを行なってきたでしょうか?この教会は1923年の伝道開始から今年でちょうど100年です。太平洋戦争中の週報には礼拝プログラムの前奏の次に「国民儀礼」(宮城遥拝(きゅうじょうようはい),皇居を遠くから拝むこと)が行なわれていたと書かれています。天皇を拝むのはどうなのか?この教会は近隣地域の人々を大切にして、イエス様を伝えてきたでしょうか?自分は人に不快な思いをさせ、傷つけてはいないでしょうか?献金を心から神様にささげていますか?神様に喜ばれないことに気づいたら、神様に告白し、赦していただき、自分を変えていただきましょう。ローマ12:1,2をお読みします。
(記:牧師 小暮智久)