2023年1月1日 礼拝説教 「神様はどんなお方?」

聖書: 申命記 33章27節前半

Ⅰ.はじめに

 日常の生活で悩みや困難にぶつかる時、受験や就職などの人生の節目、あるいはこのような新しい年の変わり目などに、「神様っておられるのだろうか」「その神様はどんなお方なのだろうか」と思う人は多いのではないでしょうか。それは、自分の人生の原点や意味について、自分のいのちの源や行く末について深く考えさせられるからかもしれません。神様はおられるのでしょうか。おられるとしたら、どんなお方なのでしょうか。私たちは生まれてからこのかた、神様についてさまざまなことを聞き、また自分で想像してイメージを作り上げてきたかもしれません。今このときは、それらを少し脇に置き、『聖書』は、神様をどんなお方と紹介しているか、その紹介の一つをともにお聞きしてみましょう。

Ⅱ.みことば

1.いにしえよりの神(申命記 33章27節)

 第1に、「いにしえよりの神は」と言われています。「いにしえ」とは「遠い昔」という意味です。神様は、「遠い昔」からおられるというのです。神様は、永遠の昔から存在しておられるお方です。私たち人間は、生まれた日があり、死ぬ日があります。地上では一時的な限りのある存在です。しかし、神様は限りなく存在し続けておられるお方です。「いにしえよりの神」であり、この世界を造られた神様が、自分ではいつ、どこで生まれるかを選べない私たちに、命を与えておられるお方なのです。

 ちょうど10年前、2013年のNHKの大河ドラマは「八重の桜」でした。その主人公、山本八重と結婚した新島 襄は同志社大学を創立した人として知られています。新島 襄は若い時代に、友人の家で『聖書』の一部分をまとめた数冊の本を見つけ、借りて来て家で読みました。江戸時代の末期でキリスト教が禁じられていた時代ですから、彼はびくびくしながら読んだそうです。「はじめに神が天と地を創造された」という最初の言葉に彼は驚きました。彼はその日のことを後に手紙に書いています。「私は、それらの本を綿密に注意して読んだ。私は一方では懐疑を持ったが一方ではうやうやしい畏敬の念に打たれた。・・・私たちの住んでいる世界は、神の見えざる手によって創造せられたもので、偶然に出来たのではないことを私は悟った。私は・・・神の別名が〈天の父〉であることを発見した。それは私の心の中に今まで以上に神に対する畏敬の念を起こした」(守部喜雅著,『聖書を読んだサムライたち』,p.74)。その日、新島 襄は生まれて初めてお祈りしたそうです。「神さま。この天と地とをおつくりくださったことを感謝します。私の両親をつくられたことを感謝いたします。そして、私をもおつくりくださったことを、感謝いたします。今まで知らなかったとはいえ、お礼をも申し上げなかったことを、おゆるしください」(少年少女信仰偉人伝『新島 襄』,p.22)。この世界を造られた「いにしえよりの神」が自分を生かしていると知る時、私たちも新島 襄の思いに深く共感できるのではないでしょうか。

2.住まう家である神(申命記 33章27節)

 第2に、「いにしえよりの神は、住まう家」と言われています。神様が永遠の存在で、人間をはるかに超越した存在だと言われると、偉大であるけれども近づきがたい、雲の上の存在と感じ、距離を感じてしまうかもしれません。しかし、神様は私たちにとって住む場所、家のようにあなたを保護し、包んでくださっている身近なお方だというのです。その神様の保護や守りというのは、人生のさまざまな困難や問題に全く遭わないということではありません。神様の保護とは、安全の保証ではなく、あなたを見捨てず共にいるという同伴の保証です。居場所のない孤独感を感じるときも、神は私たちが「住まう家」です。

3.支えてくださる神(申命記 33章27節)

 第3に、「下には永遠の腕がある」と言われています。この「腕」とはもちろん、神様の腕です。神様に目に見える腕があるのではないですが、『聖書』の中で神様の「腕」という表現は、神様の「力強い救い」を意味することが多いようです。私たちがどこかから落ちても下でだれかが力強い腕で抱きとめてくれるように、神様は下で抱きとめて救い、私たちを力強く支えてくださるお方だと言われているのです。神様は、私たちが「住まう家」となって、いつも共にいてくださるだけではなく、もうだめだと疲れ果て絶望する時、私たちの存在の下にまわって、そこまで低くなられて、下から支えてくださいます。

 今から約2000年前、神様の御子イエス様がこの世界に来られた事実は、神様のこの面をよくあらわしています。先週の日曜日はクリスマス。イエス様がこの世に来られたご降誕を祝う日でした。そして、その8日後である今日1月1日は、ヨセフとマリアが幼子に「イエス」と名前をつけた(ルカ2:21)ことを覚える「主イエスの命名の日」です。神様によって造られたのに、神様から離れ、生きる意味を見失い、むなしさや孤独を感じ、気がつかないうちに人を傷つけて遠ざけてしまっていた私たちひとりひとりのために、イエス様は人となり、低く身をかがめてしもべとなり、私たちのすべての罪を背負って十字架にかかり、死んでくださいました。その3日目に死から復活し、ご自身に頼る者のすべての罪をゆるし、神様の子どもとして新しく神様の民の中に、神様の家族の中に生まれさせてくださるという、この驚くほどの「いい話」「福音」は、まさに私たちの人間の罪のどん底まで低くなられ、私たちを下から「永遠の腕」をもって救い、支えてくださる神様のお姿そのものではないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 考えてみれば、この神様がおられなければ、この世界は存在せず、私たちは今、存在しなかったのです。私たちよりも先におられ、私たちを造り、私たちを生かしておられるこの神様の子どもとされ、神様の民とされて「住まう家」である神様と共に生かされていくために、神様が送ってくださった救い主イエス様を受け入れようではありませんか。また、すでにイエス様を信じて神様の家族、神様の民とされたお互いは、この新しい年、「いにしえよりの神」が私たちの「住まう家」として守り養い、下にある「永遠の腕」に支えられていることを、日曜日ごとに教会で共に礼拝して、今は月に一度ですが聖餐を受けることで実感し、日々『聖書』を読み、祈り、身近な人にイエス様を証しすることで経験しようではありませんか。

(記:牧師 小暮智久)