2022年12月11日 礼拝説教 「戸をたたくイエス様」
聖書: ヨハネの黙示録 3章15~22節
Ⅰ.はじめに
先週の木曜日、12月8日とは何の日でしょうか?81年前の1941(昭和16)年12月8日、米国・ハワイ諸島のオアフ島の真珠湾を日本の戦闘機が予告なしに爆撃し、太平洋戦争が始まった日です。この真珠湾攻撃の総指揮官は、淵田美津雄という人でした。実は、この人は戦後、キリストを信じ、日本基督教団の堺の教会で洗礼を受けます。どんなきっかけがあったのでしょうか?今の日本の私たちが教会に行くきっかけや、キリストを信じるようになる場合には、どのようなプロセスを通ることが多いのでしょうか?先ほど共にお聴きしたイエス・キリストの言葉の20節を中心に、共に思い巡らしてみましょう。
Ⅱ.みことば
1.キリストが戸の外に(ヨハネの黙示録 3章20節)
日本ではキリストというお方と関係のない生活をしている人が多いです。日本のクリスチャンは人口の1%、100人に1人いるかいないかです。先ほどの言葉でキリストは「わたしは戸の外に立って」と言われました。自分の生活を戸の内側とするならば、キリストが戸の外におられるのが、今の日本の多くの人の状態ではないでしょうか。それでもクリスマスになると、ツリーを飾り、ケーキを食べ、クリスマスを祝う人が日本でも多いのは不思議です。先ほどの淵田美津雄さんは神棚(神道)と仏壇(仏教)が両方ある普通の日本の家庭に生まれたそうです。しかし、特にこれと言う宗教を信じてはいませんでした。このような人は多いのではないでしょうか。キリストと全く関係がなかった人は、どのようにしてキリストを信じるようになるのでしょうか?教会の図書貸出コーナーにある『キリスト教は役に立つか』というカトリックの司祭が書いた本があります。私たちがキリストを信じるようになる、つまり、キリストが自分の生活にどのように入って来るのかを、4つに分けて説明しています。①自分の世界にキリストが全くいない、②自分の世界の隅っこにキリストらしきものがいる、③キリストが自分の世界に入って来られ、自分に話しかけたり、自分も祈ったりする、④それまで自分が中心だった自分の世界の中心にキリストがおられる、という4つです。今のあなたは、この4つのうち、どの状態でしょうか?
キリストというお方が「戸の外に立って」(20節)ということばは14節からの一続きの文章の一か所です。これはラオディキアという町にある教会の人々に書き送られた手紙だとわかります(14節)。イエス様を生活の中に受け入れ、洗礼を受けたはずなのに、イエス様が戸の外に立っている教会というのは、どういうことでしょうか?今の私たちの教会も、イエス様を戸の外にしめ出して、外に立たせているということはないでしょうか。
2.キリストが戸をたたく(ヨハネの黙示録 3章20節)
そこに音が聞こえます。今ならば「ピンポーン」というドアホンでしょうか。誰かが外にいます。借金の取り立てや何かの請求でもないようです。戸の外でドアをノックし、こちらがあけるのを待っています。いったい誰でしょうか。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」。私たちの生活の外に立っているキリストが「あけてくれませんか」とドアをたたく音です。先ほどの4つの状態で言えば、②の「自分の世界の隅っこにキリストらしきものがいる」という状態です。自分とはまだ関係はないのですが、自分の目で見る世界の隅っこに見えてきたという感じです。具体的には、私たちのどんな経験でしょうか?
例えば、自分の家族や友人など身近にクリスチャンがいた、子どもの頃に教会学校に行っていた、学校がミッションスクールだった、『聖書』をもらったことがある、などなどです。今年5月に主のもとに召された私の母は「よろこびの泉」誌のクリスマスの号に自分の経験を文章で寄せています。1965年に埼玉県所沢市に建てたばかりの家を東北の仙台への父の転勤で離れることになったこと、5年後再び転勤で我が家に戻った時に隣に外国人の家が建っていたこと、その人が太平洋戦争中に日本を爆撃したあと中国で日本軍の捕虜となり獄中でイエス様を信じて戦後宣教師として来日したデシェーザーであったこと、この人を通してイエス様を信じ洗礼を受けたこと、これらの証しのタイトルを「待ち伏せの恵み」としています。「待ち伏せ」っていい意味では使わないのではないかと私は違和感がありますが、もし母にそう言ったなら「いいのよ。本当に待ち伏せだったんだから」ときっぱり言われそうです。この違和感が、印象に残るタイトルだなあとも感じています。
キリストが私たちそれぞれの自分の世界の戸をたたくのはなぜでしょうか?それは、「わたしと友だちになろう」と言いたいからです。友だちになるかどうかは、こちら次第です。
3.キリストに戸をあける(ヨハネの黙示録 3章20節)
戸をあけるか、あけないか、それを決めるのは私たちそれぞれであって、キリストはそれほどに私たち一人一人を尊重しておられます。キリストが入って来られるように戸を開けるとはどんなことか?先ほどの真珠湾攻撃の総指揮官・淵田美津雄さんの場合はどうだったでしょうか?戦後、淵田さんは戦争の責任を問われ、日本を占領していた米軍に呼び出され、東京・渋谷に行きます。そこで一人のアメリカ人が道行く人々にリーフレットを配っていました。渡されたので見てみると「わたしは日本の捕虜でした」という題でした。それは、のちに母や私や弟に洗礼を授けたデシェーザーという宣教師の手記で、それを読んだ淵田さんは、なぜか『聖書』を読んでみようと思い立ち、本屋さんで買い求め、次の言葉に出会ったのでした。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23章34節)。淵田さんは、自分を十字架につけて殺そうとしている人々のために祈ったキリストのこの祈りに目がしらがジーンと熱くなったそうです。「わたしはゴルゴタの十字架を仰ぎ見て、まっすぐにキリストに向き直りました。その日わたしはイエス・キリストを救い主として受け入れたのであります」とご自分の著書『真珠湾からゴルゴタへ』に書いておられます(p.13)。キリストが十字架につけられ死なれたのは、神様に背いた私たちの身代わりだと『聖書』は語っています。
今日、キリストに戸をあけることができます。全部がわかっていなくても「イエス様、私の生活にどうぞお入りください」とお祈りすれば、キリストは入って来られます。キリストが私たちの生活の中に入られると、どうなるのでしょうか?「わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とあります。キリストは責めたり、お説教したりせず、共に食事をされます。これは、キリストが私の友だちになられたということです。話しかけ、聞いてくれる、親しい交わりが始まったのです。
Ⅲ.むすび
あなたとキリストとの距離はどのくらいですか?今より一歩、近づきませんか。キリストを迎え入れ、今週もイエス様との親しい交わりを持ち続けましょう。
(記:牧師 小暮智久)