2022年2月20日 礼拝説教「今までとは違う」
聖書: サムエル記 第1 1章4~11節
Ⅰ.はじめに
「嫌がらせ」や言わば「ハラスメント」を受けたことがあるでしょうか?その仕返しをしたことはどうですか?家族や身近な人との間などで多少は誰でもあるでしょう。その繰り返しや悪循環から抜け出すにはどうしたよいか?今までと違う道はないのでしょうか?
私たちの教会の礼拝では、『聖書』の最初の書物,「創世記」を少しずつ17年かけてお聴きし昨年末にその最後に到達しました。次は「サムエル記」のみことばを1月30日から取り次がせていただき、今日はその続きの所です。「サムエル記」はどの時代なのかを大まかに見るために、前回『百万人の福音』という月刊誌の昨年12月号の「聖書が語る世界の歴史と神のご計画」というイラストをお配りしました。このイラストで言えば、「創世記」は「I.創造」「Ⅱ.堕落と再出発」と「Ⅲ.イスラエル」の最初までを記しています。そして、この「サムエル記」は「Ⅲ.イスラエル」の中の「さばきつかさ」のあとを記しているのです。今の私たちは、「Ⅳ.イエス」に続く「Ⅴ.教会」が約2000年過ぎた時代におり、「Ⅵ.新創造」の再臨、新天新地というすばらしい時を待ち望む時代に生かされています。イエス様を通して今の私たちともつながっている「サムエル記」のみことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.つらい礼拝(サムエル記 第1 1章4~8節)
「そのようなある日」(4節)とはどんな時か?それは約3000年前、紀元前1070年頃の西アジアの死海という湖の西北に住むエルカナという人が毎年家族と礼拝に行っていた時です(3節)。彼の妻ハンナには子がなく、もう一人の妻ペニンナには子がいました(2節)。
その年もエルカナは「いけにえを献げ」(4節)、当時のしかたで神様に礼拝をささげました。その「いけにえ」はいくつかの種類の中で「交わりのいけにえ」(レビ記7:11~18)と呼ばれるもので、神様にささげた肉などはささげた人も皆で分けて食べたのです。それが「それぞれの受ける分」(4節)です。妻ペニンナの子は「すべての息子、娘たち」と書かれ、かなりの子だくさんを思わせます。夫エルカナはその一人一人の前に肉などを置きました。妻ハンナには彼なりの配慮をしています。5節を読みます。「特別の受ける分」は量でしょうか、特別な分を夫は与えました。「彼がハンナを愛していたから」(5節)とあります。しかし、ハンナにとってはその特別扱いもつらかったのではなかったか。また、ペニンナの子たちのテーブルを見ると、自分には子がないことを深く実感させられるのです。
「主は彼女の胎を閉じておられた」(5節)とあります。理由は不明。現代では「子どもは作れるもの」と考えられがちかもしれませんが、子どもは神様から授かる存在、授けるか否かは神の領域のこと。なのに、ペニンナはハンナをいらだたせました。6節を読みましょう。自慢したか、さげすんだか不明ですが、ハラスメントが行われました。7節をお読みします。「そのようなことが毎年」(7節)とあります。ハンナにとって主の家での礼拝は、自分は価値がなくひとりぼっちだと思い知る時、つらい時だったのではないでしょうか。
夫は愛情を表わします。8節をお読みします。「十人の息子以上の者」とは当時の慣用句のようです(ルツ記4:15)。夫のこのことばは慰めとなったか?私には無力に思えます。
あなたにも「つらい礼拝」があるでしょうか?「あの人はあんなに、・・・、それにひきかえ、私はこんなに、・・・」というような「つらい礼拝」を経験したことがあるとすれば、どうしたらよいのでしょうか?ハンナにはその気持ちがよくわかるのではないでしょうか。
2.痛みと祈り(サムエル記 第1 1章9~11節)
「ハンナは立ち上がった」(9節)。何のため?例年のように家に帰るためではありません。「心は痛んでいた」(10節)。そこまではいつもと同じ。しかし、そのあとが今年は違いました。「彼女は激しく泣いて、主に祈った」(10節)。ハンナが「主の家」(7節)で、主の前で、自分の心の痛みをことばにして切実に祈ったのは初めてだったのではないでしょうか。
私は生まれつきの尿道の障害で個室のトイレでしか用を足せず、小学校でからかわれ、筆箱を隠されたり、体操服を袋ごと取られたりしたので、学校でもうトイレには行かないと決めました。しかし、ある日の帰り道ついに我慢できず、人目を避け道端でしゃがみ用を足したあの時のみじめさ、心の痛みを忘れることができません。心に痛みを感じる時、私たちの前には幾つか道があり、選ぶことができます。例えば①ふさぎ込む、引きこもる、②復讐する、③現実から逃げる(大人なら酒などに依存する)、④親や神をうらむなどです。ハンナはそれらの中から「痛みを神に話すこと」を選んだのでした。今までとは違うのはなぜか?悪循環を繰り返してしまう自分に限界を感じ、祈りに追い込まれたのでしょうか。
ハンナは何を祈ったのか?10節と11節の間にこう祈ったかもしれません。「ペニンナの仕打ちはひどすぎます。何とかしてください」「神様、なぜ私に子どもをくださらないのですか?」などです。『聖書』の「詩篇」にはそんなお祈りもありますね(詩22:1,35:26,140:9-11)。そして、「誓願」、誓いを立てます。11節をお読みします。「万軍の主よ」と神様を呼んだのはハンナが最初です。「万軍」とは空の星や天使の軍勢など、神様が造られたものすべてです。この祈りは次のような意味だと言えるでしょう。「宇宙の主よ、これらの万軍をあなたは世界に造られた。私に一人の男子を与えることが困難なのでしょうか」(タルムードより)。そして、彼女の誓いとは、「男の子を下さるなら、その子を一生の間、主にお渡しします」(11節)という内容でした。なぜ、こう誓ったのか?交換条件、取り引きでしょうか。ハンナはペニンナに仕返しや対抗する道も選べたはずです。しかし、与えられた子を主にお渡しし、主に仕える者としたら、礼拝のたびに自分の子の受ける分はなく、今までと同じではないか。なぜ、「ペニンナよりも多くの子を、息子も娘も」と祈らなかったのか。
ハンナはつらい礼拝を繰り返す中で、自分の名前が「恵み」という意味であることを深く考えたのではないか。「子もまた神からの恵み。『恵み』は与えるお方の主権によること。だから、与えられる子は主の恵み、それは主のもの。主にお返しし、主に用いていただくのだ」。奉献の讃美歌548「ささげまつるものはすべて み手よりうけたるたまものなり み前に今返しまつる み栄えのために用いたまえ」は、そのエッセンスをよく表わしています。
私たちが今、生きているのは何のためか?それは、イエス様が十字架で死んでくださったのは何のためかを知るときにこそ、はっきりとします。Iテサロニケ5:10を読みましょう。今、私たちが生きているのは、「主とともに生きる」ためです。生かされている恵みを感謝し、神様のものである自分を神様にお返しして、「主のもの」として生活する人は、生きている間も死んだのちも、「主のもの」として主と共に過ごせるのです(ローマ14:8)。
Ⅲ.むすび
解決しない心の痛みゆえのつらい礼拝がありますか?同じことの繰り返しでなく、今までとは違う道を選ぶため、ハンナと共に立ち上がり、何を祈りますか?
(記:牧師 小暮智久)