2022年2月6日 礼拝説教「主に導かれるとは」

聖書: 申命記 31章7~8節

Ⅰ.はじめに

 お店で買いたい物が見つからない時、どうしますか?自分で探す方ですか?それとも、お店の方などに「あれはどこにありますか?」と聞く方ですか?その時と場合によって違うなあというのが実際かもしれません。たとえば、お店の方にお聞きして、「あ、それはあそこです。ご案内します」と言われて、導いていただくにはどうするでしょうか。まず、その方の案内や導きを受け入れ、そのことばの通りについていくことでしょう。自分で「こちらの方が近道かも」と勝手に動いたら買いたいものは見つからないかもしれません。

 3月末までの今年度の終わりまであと2か月を切りました。私たちの教会の今年度の総主題は「主よ、導いてください」で、主題のみことばは先ほどお読みした申命記31章8節です。今日は、お店の方のご案内よりももっとすばらしい、神様というお方に案内され、導かれるとはどういうことなのか、みことばに共に聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.主の導きを受け入れる(申命記 31章7~8節)

 今年度の主題聖句の8節をお読みします。「主ご自身」とは誰でしょうか?それは、この世界、宇宙を造られた神様、私たちひとりひとりを今、生かしておられる神様です。このお方が「あなたに先立って進まれる」。どういうことか?それは、この神様というお方が、あなたを導こうとしておられるということです。これは、直接にはヨシュアという人に、紀元前1400年頃、今から3422年ほど前に言われたことばです。7節を読みます。モーセとは、神様によって80歳になってからリーダーとして立てられ、エジプトで奴隷だったイスラエルの民をそこから導き出した人です。彼は40年間、なんと120歳まで民のリーダーとして荒野での旅を導き、神様が与えると約束されたカナンという豊かな土地を目前に見る所までようやくたどり着きました。しかし、モーセは約束の地に入ることを許されず、次のリーダーとして立てられたのがこのヨシュアという人だったのです。その土地を与えるのも、先立って導くのも主だとヨシュアに言われています。ヨシュアにとって、また、今の私たちにとって、先立って進まれる主に導かれるにはどうしたらよいでしょうか?

 そのためには、まず主の導きを受け入れることが必要ではないでしょうか。「主よ、私を導いてください」と自分の生活を、主に任せることです。しかし、イスラエルの民は以前、それができませんでした。出エジプト記14:8~14を読みます。「週報」の「今日もみことば」で先週読んだ箇所です。主を信頼せず、導きを拒んだのです。今の私たちにも、主の導きに従って自分に不都合なことが起きたら、同じように主に文句を言い、これからは自分の都合で判断し、主の導きを拒否するでしょうか。そうなってはいけません。主に従った結果、どんなに困難なことになっても、主がお導きなった以上は「主があなたがたのために戦われる」(出エジプト14:14)のであり、この「万軍の主」が味方です。この主を敵に回すことほど、恐ろしいことはありません。主の導きを受け入れる素直さをもちましょう。

2.主のことばの通りにする(申命記 31章8節)

 教会に初めて来られた方が何かわからないことがある時、どうするでしょうか?例えば、礼拝は1階か2階か、トイレはどこか、『聖書』や『讃美歌』はどこを開いたらよいのかなど、初めての時は勝手がわからず、緊張するものです。初めての人は、壁の掲示や案内を見たり、案内の人に聞いたりするかもしれません。壁の掲示に「トイレはあちら」と書かれていればそれを信じてそちらへ行き、案内の人が「『聖書』はこれをお使いくださり、ここをお開きください」と言えば、そのことばのとおりにされるだろうと思います。

 では、主は私たちにどう言われるか?申命記31:8の2つ目の文章から読みます。神様は共におられ、見放さず、見捨てないと言われるのです。あなたが初めての場所で案内の人のことばを信じるのならば、この主のことばはもっと信頼できるのではないでしょうか。主に導かれるとは、このお方が言われることばを信じ、そのとおりに従うということです。

 しかし、『聖書』には、主に導かれて生活してきたはずのイスラエルの民が、主のことばのとおりに従わなかった実例が多く出てきます。それは、人間というものには思う以上に身勝手で、プライドが高く、自分はまちがっていないと思い込む性質があることを示しており、今の私たちへの警告でもあります。出エジプト16:22~30を読みましょう。「週報」の「今日のみことば」で今週読む所です。22節の「パン」とは荒野での旅の間、神様が与えてくださったマナと呼ばれる不思議な食べ物です。その日の分が日々与えられ、民はそれを毎日外に集めに行きました。このマナは、休みの日の前日、6日目にはいつもの2倍が与えられ、7日目の休みの日に人々は外に集めに行かなくてよかったのです。7日目は「主の安息」、休みの日、今で言えば、週の初めの日、日曜日は糧を得るために働かなくてよい休息の日です。主は「今日は、それを野で見つけることはできない」(出エジプト16:25)と言われました。しかし、ある人々はそのことばの通りにしませんでした(27節)。主はどう言われたか?28節を読みましょう。主に導かれるとは、主のことばの通りに生活することです。「あなたがたは、いつまで・・・守らないのか」と言われないようにしましょう。今で言えば、日曜日は「主の日」として他の曜日と区別し、その日は「礼拝と休息の日」として過ごすこと、必要な糧はその前日までに2倍が与えられると言われる主のことばのとおりに生活すること、それが主に導かれて生活することではないでしょうか。29節を読みます。「心せよ」と言われる主のことばに、私たちは心して従いましょう。「主の日」、日曜日に礼拝せず、休息しないなら、その大きなつけをどこかで支払うことになるでしょう。

Ⅲ.むすび

 私たちひとりひとりは神様によって生かされていますから、自分の思うままにではなく、神様に導きを受け入れて生活することが本来の姿です。そこに真の自由と幸せを実感できるように人間は造られているのです。しかし、アダムとエバが神様に背いて以来、自分がよいと思うような生活こそが自由で幸福だと錯覚するようになってしまいました。その結末は、いのちの源である神様から切り離される永遠の滅びです。神様は、私たちが滅びることを願わず、ご自身のもとに帰ることを切望され、ご自身のひとり子イエス様をこの世に遣わされました。イエス様は神様に対する私たちの背きの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、完全な赦しの保証として3日目に復活されました。このイエス様を救い主として信じ迎える人は、背きの罪をすべて赦され、神様の子ども、主の民とされ、主に導かれることを願うように変えられます。今日いただく「聖餐」によって、主の導きを受け入れて主のことばの通りに生活する信頼の心と素直な心を養われましょう。

(記:牧師 小暮智久)