2024年3月24日 礼拝説教 「新しい交わり」

聖書: ヨハネの福音書 19章23~30節

Ⅰ.はじめに

 日本の暦では先週水曜日が「春分の日」。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、寒さはそろそろ終わりでしょうか。キリスト教会の暦では今日からの1週間を「受難週」と言います。イエス様がエルサレムの都に、しゅろの枝を持った多くの人々に歓迎されて入られたことを覚えるのが、「しゅろの主日」と呼ばれる今日の日曜日。先ほどの讃美歌130番の曲は表彰式でよく聞くメロディ、歌詞はイエス様のエルサレム入城の光景です。木曜日には弟子たちとの最後の晩餐があり、金曜日にイエス様は十字架につけられて死なれ、お墓に葬られました。今年は、今週がこれらの出来事の意味を思い巡らす1週間です。

 先週の主の日は、親しい友であり敬愛する山本 昇牧師をお迎えし、「ヨハネの福音書」の全体から幅広く、とても深く、みことばを取り次いでいただけたことを感謝しています。私も「ヨハネの福音書」に対する思いと関心を新たにされたので、今日は「ヨハネの福音書」が私たちに告げる十字架の場面から、ともにみことばをお聴きしたいと思います。

Ⅱ.みことば

1.兵士たちのくじ引き(ヨハネの福音書 19章23~24節)

 「兵士たちはイエスを十字架につけると」(23節)とあります。イエス様を実際に十字架につけたのは、ローマ帝国の兵士たちでした。というのは、今から約2000年前の西アジア、ユダヤ地方を支配していたのはローマ帝国で、「十字架刑」というローマ帝国で最も残酷な方法による死刑の執行は、ローマ兵の仕事だったからです。彼らは、イエス様が着ていた衣を4つに分けます。「各自に一つずつ」(23節)とありますから、兵士は4人だったのでしょう。イエス様の下着も分けようとしますが「縫い目のないもの」(23節)だったので、彼らはくじ引きをします(24節)。彼らは何気なくくじを引きますが、ここに「聖書が成就するためであった」(24節)とあるのがとても印象的です。これは、約3000年前、イエス様が十字架につけられる1000年ほど前にダビデという王様が、神様に導かれて書いた讃美の歌であり預言のことばである詩篇22篇18節の実現だったのです。

 救い主が十字架につけられることやその時の出来事は決して偶然ではなく、神様のご計画の実現でした。『聖書』の中の預言、神様の約束は必ず実現することを、私たちは兵士たちのくじ引きの出来事から実感できるのではないでしょうか。まだ実現していない『聖書』の預言の一つ、それはイエス様の再臨、新天新地の到来です。これも必ず起こります。

2.新しい家族(ヨハネの福音書 19章25~27節)

 イエス様の十字架のそばには誰がいたのでしょうか?25節をお読みします。弟子たちは逃げていました。最後まで十字架のそばにいたのは女性たち、安息日だった土曜日が終わって日曜日に最初にイエス様のお墓に行ったのも女性たちであったことは印象的です。

 弟子の中で十字架のそばにいたのは「愛する弟子」と書かれているヨハネだけだったようです。聖霊である神様に導かれて、この福音書を書いた人物です。人は誰でも、両手を伸ばされ釘づけられ、両足も釘づけられて地面に垂直に立てられると、身体の重みで胸が圧迫され、呼吸が困難になるそうです。苦しい息の中でイエス様が言われたことは何か?26~27節をお読みします。イエス様はご自分が神様のみもと、パラダイスへ行ったあとの母マリアのことを案じておられたのです。「女の方」という呼びかけは他人行儀で冷たくも感じますが、ローマ皇帝のアウグストがエジプトの女王クレオパトラに用いた尊敬を現わす表現だそうです。イエス様は、母マリアにはヨハネが新しい息子、ヨハネにはマリアが新しい母だと言われ、この二人を新しい家族として結び合わされたのでした。

 イエス様は、ご自分がつけられた十字架のもとで、新しい家族をつくられました。それは、血のつながりや、好き嫌いや、気が合うかどうか、などによる人間的な交わりとは、根本的に異なるキリスト者(クリスチャン)の交わりであり、「教会」です。この新しい交わりの特徴は何か?それは、自分たちのためにキリストが死んでくださったゆえに、お互いが兄弟であり姉妹であるという意識によって結び合わされていることです(『新聖書注解 新約1』p.535)。今の私たちも、自分のためにイエス様が死んでくださったと信じているならば、イエス様は私たちお互いを、新しい家族として結び合わせてくださっています。

3.完了としての死(ヨハネの福音書 19章28~30節)

 28節をお読みします。イエス様は死に向かう苦しみの中で、ご自分が経験していることが偶然ではなく、神様のご計画によることだと知っておられました。そして、ご自分をこの世にお送りになった父なる神様のご計画がすべて完了したのを知ると「わたしは渇く」と言われます(28節)。それは朝9時から十字架の上で約6時間を経過した時の肉体的な限界をあらわす渇きでしょう。これも『聖書』の預言(詩篇22:15など)の成就だとヨハネは書いています。その声は、十字架の下にいる兵士たちに聞こえたのでしょう。29節をお読みします。この「酸いぶどう酒」は兵士たちが刑の執行を見届けながら飲もうとして持って来ていたもののようです。兵士たちがイエス様の飲ませようと、酸いぶどう酒を含んだ海綿をつけた「ヒソプ」という植物の枝は、今から約3500年前にイスラエルの民がエジプトを出ていく際に小羊の血を自分の家のかもいに塗った時のヒソプを思い起こさせます(出エジプト記12:22)。この時のローマ兵たちの行動は図らずも、イエス様が「過ぎ越しの小羊」であることを示したのだと、ヨハネは言いたかったのかもしれません。

 イエス様がお受けになった酸いぶどう酒は、痛みを和らげる麻酔の効果がある「没薬を混ぜたぶどう酒」ではありませんでした。イエス様はそれを拒絶されました(マルコ15:23)。イエス様は極限までの痛みや苦しみを受けられ、「完了した」と言われます。30節をお読みします。「完了した」というイエス様のことばに込められている意味は非常に深いのではないでしょうか。キリスト以前のことを記す「旧約聖書」が示す神様の救いのご計画の中で遣わされたイエス様の使命が「完了した」のです。最初の人アダムが神様に背いて以来、破れてしまった神様と私たちひとりひとりとの親しい「交わり」が、再び結び合わされるために、イエス様が果たす使命が今まさに「完了した」のです。イエス様の十字架での死は、志半ばでの挫折ではなく、罪の全くないお方が私たちの身代わりとなって死なれ、神様と私たちとの「交わり」の回復の準備が整えられた「完了」としての死なのです。

Ⅲ.むすび

 神様と私たちとの間の「交わり」を回復する準備を「完了」してくださったイエス様を、自分の救い主と信じるだけで、すべての罪が赦され、神様との関係は親しい「交わり」へと回復されます。それだけでなく、イエス様を信じる人は互いに「神様の家族」とされ、新しい「交わり」が始まります。この「交わり」の中で歩みましょう。

(記:牧師 小暮智久)