2024年2月11日 礼拝説教 「あなたはこのことを信じますか?」
聖書: ヨハネの福音書 11章1〜53節
Ⅰ.はじめに
どのような1週間をお過ごしになられたでしょうか。気温の変化が激しい毎日ではありますが、あともう少し、季節は春に向かっている、と意識しつつ過ごしたいと思っています。
今日は大人と子どもの合同礼拝ということで、教会学校が使っている成長というテキストに沿って聖書箇所が選ばれています。2024年は3月31日がイースター、年度内に2回イースターがあることになるのですけれども、教会学校では今日から新しい単元に入り、私たちのために十字架に向かわれたイエスさまの歩みについて学んでいくことになっています。
どんな人でも平等に経験すること、どの国の人でもお金持ちでもそうでなくても、学歴があってもなくても皆が経験すること、それはいつか必ず死ぬ、この地上でのいのちが終わる時が来るということです。イエスさまは死についてどのように教えてくださっているでしょうか。
Ⅱ.みことば
ベタニヤという村にマルタとマリア、そしてラザロの3人の兄弟が住んでいました。ベタニヤはエルサレムから3キロほどのところで、イエスさまはよくこの兄弟の家に滞在してここから昼間エルサレムに向かわれるということがあったようです。
ある時ラザロが重い病気にかかりました。それでマルタとマリヤはイエスさまのもとに使いを送り、「あなたが愛しておられる者が病気です」と伝えました。2人はイエスさまがすぐにベタニヤに来てラザロを癒してくださると期待していたことでしょう。ところが4節にこのように書かれています。イエスさまがこの3人を愛しておられたことは間違いない、けれどもすぐにはベタニヤに行こうとはされずになお2日、その時におられた場所にとどまられたというのです。イエスさまにはお考えがあった、人々に示そうとしておられることがありました。
<主イエスの悲しみ>
マルタとマリアの知らせを受けてから二日後、イエスさまはベタニヤに向かわれました。到着すると、ラザロはすでに死んでから4日経ち、お墓に納められていました。単純に考えると、ラザロが病気だと知らされた時にはもうラザロは亡くなっていたことになります。それもイエスさまが急いでベタニヤには行かれなかった理由かもしれません。
マルタとマリヤは、2人ともイエスさまに同じことを言いました。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」なぜもっと早くきてくださらなかったのですか、あなたなら、ラザロが死なないように癒すことがおできになったでしょう、そう言いたかったのだと思います。それほど2人はイエスさまに期待し、必ず助けてくださると信じていました。
この11章には、イエスさまの感情が率直に記されています。5節には「愛しておられた」と書かれていますし、33節には人々がラザロの死を悲しみ、多くの人が泣いているのをご覧になって「霊に憤りを覚え、心を騒がせた」35節には「イエスは涙を流された」とあります。このヨハネ11章から私たちが学ぶことができるのは、科学的に死んだ人が生き返るということがあり得るのか、ということ以上に、人に死が定められていることへのイエスさまの憤りや悲しみ、そして私たちに対する愛です。私たちの痛みや悲しみに寄り添い、共に泣いてくださるイエスさまのお姿をここに見ることができます。イエスさまは神の子であると同時に人の子であり、私たちと同じように豊かな感情をお持ちでした。イエスさまは私たちの悲しみ、痛みを共に担い、同情し、あわれんでくださるお方、そして私たちのために涙を流してくださるお方です。人間は罪の故に死に支配され、死ぬべき存在となってしまった。死は人間の最後の敵です。イエスさまが覚えられた憤りは、その死への憤り、そしてイエスさまはその私たちの罪と死の解決のために十字架への道に向かわれるのです。
<ラザロのよみがえり>
さて、イエスさまのおられないところでラザロは病気になって死に、墓に葬られました。死後4日経って埋葬されている、ということはちょっと意識を失っていた、仮死状態であったということではなく、間違いなく死んでいたということでしょう。もう身体の腐敗が始まっていると思われるそのラザロの死に立ち向かい、イエスさまはお墓の石をどけさせて大声でラザロの名を呼ばれました。「ラザロよ、出てきなさい」するとラザロは44節「手と足を長い布で巻かれたまま出てきた。彼の顔は布で包まれていた」当時のユダヤのお墓は洞穴のようなところに遺体を横たわらせて石で入口を塞いであった、イエスさまのお墓もそうでした。ラザロは生き返ったのです。人々は本当に驚いたことでしょうし、大騒ぎになったでしょうし、マルタやマリヤは大喜びしたことでしょう。
<永遠のいのちを持っている私たち>
このラザロが死んでいたのに生き返ったことは、イエスさまの復活とは違います。ラザロはこの時は確かに生き返りましたが、いずれこの地上での生涯は終わり死を迎えたのです。25-26節、ラザロを生き返らせる際に、イエスさまはこの有名なみことばをお語りになりました。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか」
死は全ての終わりではありません。人は死んだら終わりではない。誰もが死を経験しますけれども、イエスさまは死もいのちも支配なさるお方であり、いのちの源であるイエスさまを信じる者は死で終わらない、永遠のいのちに生かされるのです。この永遠のいのちは、死後に与えられるものではなく、生きていてイエスさまを救い主と信じる全ての者にすでに与えられているものです。ヨハネ17:3「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と書かれています。イエスさまとつながっていることのできるいのち、みことばを通して、祈りを通して、イエスさまとの交わりの中にいることができるいのちです。生きている私たちはすでにその永遠のいのちを与えられている、持っています。私たちはこの身体の死を免れることはできないけれども、死は、さらにもっと深く、密接にイエスさまと共に生きる永遠のいのちの新しい始まりなのです。
クリスチャンであっても、病気になり、やがて死を迎える時がきます。マルタやマリヤのように愛する人のために一生懸命癒しを祈っても、召されてしまうこともあります。けれどもそれは神さまが私たちを愛しておられない、ということではありません。身体の健康が奪い去られたとしても、神が立ち去られることはない、キリストは去っていかれることはありません。
イエスさまは死んだ人をも生き返らせることのできるお方、神でありました。そのお方が、私たちに寄り添い、共に涙を流された、そして私たちをそこから救い出すために死に立ち向かい、私たちの罪と死の解決のためにご自身が十字架で死なれ、よみがえられました。このイエスさまの十字架と復活がなければ、私たちの希望はありませんでした。けれども、もはや死は真っ暗な恐怖ではない、私たちは死を恐れなくていいのです。
ヘンリー・ナーウェンの「わが家への道」という本からいくつかの言葉をご紹介したいと思います。私自身、死ということについて考える中で、大きな励ましと新しい気づきを与えられた言葉です。
・『この世の短い人生は、わたしにとって、愛を受け、愛を深め、愛において成長し、そして愛を与える機会です。」(p.139)
・「私たちは、人生の道筋をたどりながら互いに支え合い、愛において共に成長するために、神に愛されている子どもとしてこの世に送られ、そしてついには、脱出に呼び出され、神とのまったき交わりに向かうために、この世を去るのです」(p.137)
・『わたしたちは愛されているという真理を自分のものとし、あふれるほど注がれている神の愛を受け取るために、心を開こうではありませんか。一日一日を精いっぱい生きて、あらゆる素晴らしい、また困難な人間関係の中で、さまざまな責任を果たす中で、また、人生のひとこまひとこまにおいて、その愛を分かち合おうではありませんか。死の種はわたしたちの中で働いています。しかし、愛は死よりも強いのです。あなたの死もわたしの死も、それは最後の通路であり、神に愛されている子どもというアイデンティのすべてを実感するための脱出の道、また、愛の神とのまったき交わりへ向けての脱出の道です。』(p.155-156)
Ⅲ.むすび
最後にもう一つ考えてみたいことがあります。
死んでいたラザロが生き返ったという素晴らしい奇跡を通して、45節には「イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた」と書かれています。間違いなく死んでいた人が墓から布を巻かれて出てきた、それを実際に目の当たりにした人にとっては衝撃的なことだったでしょうけれども、この方は確かに神から遣わされた方だとイエスを信じたわけです。ところがその一方で、同じように見聞きしたけれども、47節以降には祭司長と律法学者たちは、「このままでは、放っておいたら全ての人があの者を信じるようになる、そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう」自分たちにとって都合の悪いことになる、53節には「その日以来、彼らはイエスを殺そうと企んだ」と書かれています。
これだけの奇跡を見ても、全ての人がイエスさまを崇め、救い主と信じたのではありませんでした。確かに死んでいたラザロが生き返ったという同じことを見ました。でも彼らはイエスさまを信じることはなかった。見ているものが違うのです。
どういう心で何を受け取るのか。
ラザロの復活を目撃した人々のイエスさまに対する態度は分かれました。どこまでも自分の都合や計画や思いを優先させるのか、神さまの思い、神さまのご計画、みこころに自分の心をあわせてそれに従って歩もうとするのか。「あなたはどちらを選びますか」と問われているようです。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は皆、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか」
あなたはこのことを信じますか?
永遠のいのちをいただいた私たちは、さらに主にある豊かないのちに今週も生かされて参りましょう。
(記:小暮敬子)