2024年1月21日 礼拝説教 「生き方を選ぶ」
聖書: コリント人への手紙 第1 15章1~11節
Ⅰ.はじめに
5~6年前、私の中学時代の友人たちが出演したり、お客さんとして聴きに行ったりする音楽のライブが東京でありました。私のなつかしい友だちもピアノを弾いたり、ギターを弾くということでした。「近くだったら、ぜひ来てもらいたいなあ」とメールをくれましたので「どんな曲をやるの?」と聞きましたら、「明日にかける橋」やサザンオールスターズの曲という返信がありました。「明日にかける橋」はサイモン&ガーファンクルの歌として知られています。その歌詞の一部を、ある人は次のように翻訳しています。「わたしはいつも君の味方だよ。苦しく辛いとき、頼れる友が見つからないとき、さかまく流れにかける橋のように、わたしがこの身を投げかけよう」。激しくさかまく川の流れを前に立ち止まってしまうような時が、自分にもあるかもしれません。その時、「なぜこんな激流があるのか」と文句を言うこともできれば、立ち止まってこれまでをふり返ることもできます。私たちは自分の生き方や態度を、自分で選ぶことができるのです。そんなときに「わたしがこの身をなげかけて、さかまく流れにかける橋になってあげよう」と言ってくれる人がいたとして、どうするでしょうか。その橋を渡るか否か、私たちは生き方を自分で選べるのです。
Ⅱ.みことば
1.だれでも何かを信じてる(Ⅰコリント 15章1~2節)
私たちは誰もが、何かを信じて毎日を過ごしているのではないでしょうか。親に言われたことや学校の先生に言われた言葉、本に出て来た人の言葉など、だれもが自分の生き方の芯棒になるような、信念のようなものを持って、それを信じているかもしれません。「そんなものはない。私は自分だけを頼りに生きている」と言ったとしても、その人の生き方の芯棒は「自分の考えや判断を信じること」で、やはり何かを信じているのは同じです。「神や仏や宗教などは信じない」と言う人も、「無神論」や「無宗教」など、人間を超える存在を信じないという考え方を「信じている」ということになるのではないでしょうか。
先ほど、『聖書』の朗読を聴いて、まず私の心に残ったのは「信じたことは無駄になってしまいます」(2節)という言葉です。口語訳という翻訳では「いたずらに信じないで」と翻訳されていた部分です。「信じたことが無駄になる」とは悲劇です。あなたが今、自分の生き方の土台と信じているものは大丈夫ですか。人生の終わりになって「無駄になる」ことはありませんか。例えば親から「誰にも迷惑をかけずに生活するのよ」と言われ、それを生き方の中心にしてきた人でも、誰もが年をとると誰かに迷惑をかけたり、誰かの世話になったりします。そんな時に、自分が信じてきた生き方の土台は無駄だったと嘆くのか、それとも自分で何もできなくなった時にも、自分を支える人生の土台があるのか、これは大きな違いです。1~2節に何度も出て来る「福音」こそが、あなたが信じて無駄にならない唯一の土台です。
2.『聖書』に書かれていること(Ⅰコリント 15章3~5節)
では、しっかり受け取るなら信じても無駄にならないという「福音」とは、今の私たちに「幸福」「幸せ」をもたらす「知らせ」とはどんなものでしょうか。それこそが、世界のベストセラー、ロングセラーと言われる『聖書』という本の内容です。3~5節がその「福音」の中身ですから、もう一度読んでみましょう。
『聖書』はとても分厚い本ですが、その中心は「キリストが私たちの罪のために死なれたこと」「葬られたこと」「三日目によみがえられたこと」という「福音」です。日本語の翻訳で1600ページ以上になる「旧約聖書」には、キリスト(救い主)が来られる前の、紀元前のことが書かれています。「キリストは、どんなふうに生まれるか」も含めて「私たちの生き方の中心になる福音は、こんなふうに実現しますよ」という「約束」が事前に予告されていたのが「旧約聖書」です。そして、日本語訳で500ページ以上になる「新約聖書」には西暦後のことが書かれています。「キリストはこんなふうに生まれ、私たちのためにこんなことをしてくださいましたよ」と報告し、「私たちの生き方の中心になる福音は、こんなふうに実現した事実なんですよ」という「知らせ」が「新約聖書」です。
『聖書』というと宗教や道徳の本だと思いがちですが、『聖書』には実在した人の生き方が、その挫折や立ち直り、家族の悲劇や国の滅亡、嫁と姑のやりとりなどが、事実として書かれています。『聖書』は宗教や道徳だけの本ではなく、「神と共に生きる」という人間本来の幸せな生き方を意図した神様というお方が、ご自分に背いて迷い出た私たちをなおも見捨てず、その幸せの回復のために働いてくださった事実を記している本なのです。
3.生き方は選べる(Iコリント 15章6~11節)
神様が用意された「福音」という歴史の事実、キリストというお方の「できごと」は、大切な知らせとして、人々に伝えられていきました。初めは、キリストはじかに「五百人以上の兄弟たちに同時に現れ・・・」とある通り、この手紙の当時には目撃者が生きていました(6節)。さらに「ヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れ」(7節)、そして「私にも現れてくださいました」(8節)とこの手紙の差出人であるパウロという人は書いています。パウロは以前、自分の生き方に自信をもっていた人です。ユダヤ人として生まれ、「旧約聖書」に書かれている理想的な生き方をしようと努力し、その生き方にプライドを持っており、自分のイメージと合わないイエスをキリスト(救い主)とは認められず、教会を迫害していました(9節)。その彼に復活されたキリストが現われた時、パウロは打ち倒され、自分が「月足らずで生まれた者のような」(8節)、実は自分が未熟であったことを知らさます。彼は自分の生き方の中心が、神様に逆らっていたことを知り、キリストによって変えられ「神の恵みによって、私は今の私になりました」(10節)と書いています。
「私は今の私になりました」とパウロが言うように、私たちも自分の生き方を選べます。あなたの生き方の中心は、神様がもともと意図されたものに沿っていますか。
Ⅲ.むすび
「明日にかける橋」という歌で「さかまく川の流れにかける橋のように、わたしがこの身を投げかけよう」と歌われている「わたし」とは、まるでイエス様のようにも見えてきます。神様がもともと意図された「神と共に生きる幸せ」から離れてしまった私たちの背きを一身に引き受け、イエス様は十字架で身代わりに死んでくださいました。墓に葬られました。その3日目に復活されました。復活されたイエス様は『聖書』に記されているお方として今、あなたを招いておられます。あなたの今の生き方の中心は、この先も通用しますか。今こそ、イエス様を救い主と信じ、「神と共に生きる幸せ」という神様がもともと意図された生き方に戻らせていただきましょう。
(記:牧師 小暮智久)