2023年10月8日 礼拝説教 「新しい力」
聖書: イザヤ書 40章 26~31節
Ⅰ.はじめに
先々週9月29日(金)の中秋の名月はご覧になりましたか?東の空に昇って来る時にはとても大きく見えました。「天高く馬肥ゆる秋」と言われます。辞書によると「秋のさわやかさをいうことば」とありました。私の趣味は「山と星」です。学生時代には、埼玉県の奥秩父の山々を1週間かけて歩いたり、日本で2番目に高い山・南アルプスの北岳に登ったり、自分で鏡を磨いて天体望遠鏡を作って星を観たりしました。山登りについての話はまたの機会として、「星」とか「月」とか「天文」に興味のある方はおられるでしょうか?先ほどの『聖書』の言葉で「その万象」とは天にあるすべての物、太陽や月や星など宇宙の天体のことです。「天高く」と言われる今の季節に目を高く上げて、天を仰いでみましょう。
Ⅱ.みことば
1.造ったのはだれか?(イザヤ書 40章26節)
「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ」(26節)と『聖書』は今も呼びかけています。「これら」とは月や星のことです。『聖書』には「オリオン座」や「すばる」(ヨブ記38:31)など、星座や星の名前が出てきます。「それらを数え、その名を呼び、その動きの法則を支配しているのは誰か」と、『聖書』は私たちに問いかけます。全宇宙でこのお方の力が届かないものはなく、このお方と無関係でいられる人はひとりもいないのです。
7年前、2016年12月、先輩の牧師が私にクリスマスのプレゼントを届けてくれました。それは、その人が手間暇かけて修理した中古の天体望遠鏡で、とても嬉しく思いました。早速、月を観てみました。クレーターが見えました。しかし、肝心の反射鏡の端がさびているからか、視野の周辺部がぼやけていました。修理してくれそうな業者に問合せますと「鏡を取り外して送ってください」と言われたので、自分で取り外そうとしましたが、どうもわかりません。そこで業者ではなく、その望遠鏡を作ったメーカーに問い合わせてみたのです。さすがは作ったメーカーです。古い製品でしたが、詳しい人が「取り外したら、組み立てられなくなりますよ」と教えてくれました。メーカーに聞いて本当によかったと思いました。もし自分で勝手に取り外していたら、取り返しのつかないことになるところでした。私たちの心の眼がくもり、心がさびつき、疲れたときには、私たちを造られたお方、言わばメーカーであるお方に、問い合わせみたらどうでしょうか。
2.疲れるのはどんな時か?(イザヤ書 40章27~29節)
私たちはどんな時に疲れるでしょうか?一生懸命、仕事や勉強、クラブ活動などで頑張った時でしょうか。それでも、自分のがんばりを誰かが認めてくれたら、何か良い結果が出たら、疲れも引き飛ぶかもしれません。ほんとうに疲れるのは、自分ががんばっても、何も報いられず、理解されず、むなしさや孤独を感じる時ではないでしょうか。
このイザヤ書が書かれた当時の人々も、そんな気持ちだったようです。「わたしの道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている」(27節)。つまり、「自分が生きていることは、神様にも隠され、忘れられているのではないか」と当時の人々は言っていたのです。
カトリックのシスターである鈴木秀子(ひでこ)さんという方がご自分の著書で、高校生を対象とした2011年の調査結果を紹介しています。それによると「自分は価値のある人間だと思う」と答えた人は、米国89.1%、中国87.7%、韓国75.1%に対し、日本はわずか36.1%だと書かれていました。「自分には価値がある」と思える「自尊心」「自己肯定感」は、厳しい今の時代を生き抜くのに必要な「自分の人生の軸」ではないでしょうか。
自尊心を失いかけ、「自分は神にさえ忘れられた」と言っていた当時のイスラエルの人々に、『聖書』は問いかけます。28節をお読みします。力や知識において無限のお方が、「疲れた者」(29節)に「力を与え」、「神にさえ自分は忘れられた」と落胆し、自分には価値がないと思え、人生の軸を失った者に、「勢いを与えられる」(29節)と断言されています。
この世界を造られ永遠に生きておられる無限のお方が、この自分を造り、生かしておられる。それを見失い忘れる時、私たちは自尊心を失い、疲れ果てるのではないでしょうか。
3.新しい力を得るには?(イザヤ書 40章30~31節)
では、新たな力を得て、自分の人生の軸を取り戻すためには何が必要でしょうか?「若者も疲れて力尽き」(30節)と言われています。私たちの生まれながらの、年齢に応じた力には限界があります。それだけではなく、私たちを造ったお方から離れたままだと、私たちは滅びてしまう。神様から離れた結末は、刑罰としての滅びであると『聖書』は告げています。「どうして、すべての人が救われる必要があるか」という理由はここにあります。
しかし、「主を待ち望む者は新しく力を得」(31節)ると『聖書』は言い切っています。この世界を造られたお方である神に望みをおき、このお方を仰ぎ、このお方に信頼をおく人は、新しい力を与えられるのだと『聖書』は宣言しているのです。
「主を待ち望む者」(31節)。私たち人はもともと、主を待ち望む者として創造されました。この創造者である神を見上げ、このお方に信頼して生きるようにと造られました。にもかかわらず、私たちはこのお方を無視し、このお方とのつながりを断ち切ってしまったのです。その結果、私たちの心の眼にはこのお方が見えなくなり、自分自身の本来の価値も、この世界に生まれてきた意味や目的も、見失ってしまいました。
しかし、そんな私たちをも見捨てず、心に留めておられた神は、ご自分のひとり子を人としてこの世界に送ってくださいました。そのお方こそ、今から約2023年前に西アジアのユダヤ地方に人として生まれたイエス様です。イエス様の罪のないご生涯、十字架での私たちの身代わりの死、3日目の復活により、神はこのイエス様を救い主として自分の生活に迎え入れる人を、「主を待ち望む者」と新しく生まれさせ、新しい力を与えてくださいます。この「新しい」とは「神様に喜ばれる」という意味です。『聖書』で「新しい歌を主に歌え」(詩篇96:1)と言われる時の「新しさ」とは讃美歌としての古さや新しさではなく「主に喜ばれる歌」のことです。同じように「新しい力」とは「主に喜ばれる生活のための力」です。それは、自分と神とのつながりの回復であり、自分の本来の価値を実感し、自尊心を取り戻し、自分が生きる目的に目が開かれていく生活の始まりなのです。
Ⅲ.むすび
「天高く馬肥ゆる秋」というこの季節に、目を高く上げ、誰がこれらを造られたかを見ましょう。イエス様を救い主として信じ、このお方の子どもとされる新しい力をいただき、今日の招詞で読まれた「包囲された町の中」(詩篇31:21,新改訳3版)にいるような日々の疲れや恐れを、このお方に遠慮なく打ち明ける者とされましょう。
(記:牧師 小暮智久)