2023年7月23日 礼拝説教 「受けたら、ささげる」
聖書: ルカの福音書 9章 10~17節
Ⅰ.はじめに
「毎週、教会に行っています」と誰かに言うと、「毎週なんて、私には体力も時間もそんな余裕はありません」と返ってきそうな時代です。できるだけ節約して、自分の大切なものに時間やお金をかけるという空気に満ちているのではないでしょうか。ましてや、「ささげる」とか「与える」と言うと、「余裕があればするもの」というイメージが一般社会では強いかもしれません。イエス様を信じている人も、今の時代の空気に流されてはいないでしょうか。余裕があれば礼拝に行き、余裕があれば奉仕をし、余裕があれば献金をするとしたら、現実には余裕のある時なんて、あるのでしょうか。
この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」を少しずつお聴きし、今日は前回2月19日の続きの所です。「ささげること」についてみことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.手元にあるもの(ルカの福音書 9章10~13節)
「さて、使徒たちは帰って来て」(10節)とあります。どこから帰って来たか?イエス様によって派遣されて、人々のために奉仕をして(2節)、帰って来たのです。どんな奉仕か?「福音」を宣べ伝え、病気をいやす奉仕です(6節)。「福音」とは「神の国」(2節)とも言われ、「イエス様が来られて神様の恵みによる支配が始まった」という福音(良い知らせ)です。その奉仕の旅ではいろんなことがあったでしょう。ペテロやヨハネなど使徒たちは、くたくたに疲れていたことでしょう。イエス様はみなで休息しようと、群衆に知られないよう「ひそかに」(10節)、現場から退いて、言わば「リトリート」の時をもとうとしたのです。
「ところが」(11節)とある通り、群衆はそれに気づき、イエス様たちを追いかけます。有名人の「追っかけ」(最近では「推し活」?)のようです。イエス様の気持ちはどうか?「彼らを喜んで迎え」(11節)たのです。弟子たちはどうか?休めると思ったのに、という不満もあったかもしれません。そんな弟子たちからの提案は、とても常識的です。「もう限界です。余裕がありません」という感じでしょうか。12節をお読みします。時は今から約2000年前。日本では弥生時代の後期で、邪馬台国の卑弥呼が登場する前です。西アジアのガリラヤ地方には「宿」(12節)があり、食べ物の店があったとは文化の高さを感じます。
それに対するイエス様の提案は驚きです。13節前半をお読みします。「あなたがたが、・・・あげなさい」というはどういうことか。「見ているだけでなく、参加しなさい。お客さんではなく、あなたがもてなすのです」。イエス様は弟子たちを育てようとしています。教会員になったら、お客さんではありません。イエス様や弟子たちのように、もてなす側、奉仕する側です。礼拝に初めて来られた人に、手取り足取り手伝うのには良し悪しがありますが、教会員はとまどっている人がいないか、周囲に気を配る側とされたのです。弟子たちはどう答えたか?13節後半をお読みします。これも常識的です。手元にあるのはこれだけ。無理です。私たちも手元を見たら、同じように答えるのではないでしょうか。
2.ささげるとは(ルカの福音書 9章14~17節)
使徒たちが「手元にあるのはパン5つと魚2匹だけ。私たちがこの人々全員分の食べ物を買って来るのですか」と答えたのは無理もありません。14節をお読みします。男だけで5000人もいたからです。女性や子どもも含めたら、もっと大ぜいでしょう。イエス様はその人々を50人ぐらいずつの組に分けて、そこに座らせました。5000人なら100の組。もし10000人いたとしたら200の組です。イエス様はどうされたか?16節をお読みします。
5つのパンと2匹の魚を神様にささげ、それらを裂き、弟子たちに群衆に配るように分けられたのです。その結果しか、書かれていませんが、実に不思議です。17節を読みます。
パン5つと魚2匹だけで10000人近い人々が食べて満腹することは、ふつうはあり得ません。しかも、余ったパン切れを集めると12かご。弟子各自のかごです。弟子たちは自分でかごに集め、お互いの顔を見合わせ、その時の驚きを生涯忘れなかったに違いない。パンが増える様子を想像します。イエス様が1つのパンを裂くと2つに、2つをさらに裂くと4つに、どんどん裂いていくがなくならない。なくならないどころか、どんどん増えていく。両手に持てないほどになっていく。弟子たちはかごにいっぱいのパンと魚を、人々にどんどん配る。増えていく食べ物を、弟子たちは何度もかごに入れ、何度も配る。そういうことが起きたのです。群衆の中には、パンと魚がどこから来たのかわからなかった人々もいたでしょうが、弟子たちは知っていた。最初はパン5つと魚2匹だけだったことを。
しかも、そのパンと魚さえも、弟子のものではありません。『聖書』を読む際、同じ場面の別の箇所を開くと(「新改訳2017」は脚注が便利です)、さらに詳しくわかるという面白さがあります。ヨハネ6:9を読みましょう。それはある少年のお弁当でした。しかも、少年がささげたお弁当さえも、もともと少年や作った親のものではなく、ずっとさかのぼれば、神様から与えられたものです。神様から受けたものを、ささげたにすぎないのです。
先週は火曜から木曜まで、フリーメソジスト世界会議のロハラ議長(インド)とカイナムラ副議長(ルワンダ)たちと歓迎会や会議、懇談会などで共に過ごし、日本のフリーメソジスト教会が世界のフリーメソジスト教会とつながっており、その一員であることを強く意識しました。その際の関西空港への電車の往復の時に、大阪キリスト教短期大学の図書館から借りて来た『教会と教会堂』(長久 清(ながひさ きよし)著)という本を読みました。そこには、礼拝堂の中での聖餐台と聖書朗読台と説教台の大切さが書かれていました。特に、「聖餐を受けること」と「自分のからだを主にささげること」は一つであると述べられていて、ほんとうにそうだと思いました。「ささげることがなければ、本当に受けたことにはならない。だから、受けることと、ささげることは一つのものではあるまいか」(p.50~51)。
Ⅲ.むすび
私たちは余裕があるからささげるのではなく、日頃受けているものを主にささげるとき、その受けているものが、主の恵みとして生きる。そして、周囲の人々を豊かに生かし、主のすばらしさが現わされていく。ささげないままで、受けるだけでいると、よどみ、にごっていく。イスラエルの「死海」のようです。「死の海」と書く。川が流れ込むだけで、流れ出て行かないので、塩分が濃くなり、生き物が生きられなくなったと聞きます。フリーメソジストの使命は「神を愛し、人を愛し、イエス様の弟子をつくること」と世界会議の議長から聞きました。自分の「いのち」よりも大事なもの。それは、この「いのち」を与えてくださった主(讃美歌360)。「ささげまつるものは すべて御手より受けたる賜物なり」(讃美歌548)。主より受けたいのち、からだ、恵みのすべてを、神を愛するゆえに神にささげるとき、人を愛する愛を主より与えられ、身近な人を主の弟子とすることができるのではないでしょうか。余裕のないときこそ輝くのは、主の栄光です。
(記:牧師 小暮智久)