2023年5月21日 礼拝説教 「自分は何者?」
聖書:使徒の働き 1章3~11節
Ⅰ.はじめに
先週5/14(日)、私は三田市の三輪教会に招かれて主に礼拝をささげ、みことばを取り次ぐ奉仕をしました。同じ日本フリーメソジスト教団の教会で、とてもあたたかく迎えていただいたと感じました。礼拝の司会の方はその日が初めてだったそうですが、東住吉教会の礼拝のためにもお祈りくださいました。礼拝は30人ほど、礼拝後はトイレや階段など分担してそうじをし、昼食はうどんでした。油揚げやねぎをのせ、つゆも自分でかけるセルフサービスでした。食卓ではなぜか私と妻のなれそめの話になり、みなさんもご自分のことを話してくださり、主にある楽しい交わりのときでした。お祈りを感謝します。
最近日曜日ごとに雨ですが、今日はどうでしょうか?説教を準備している今の時点ではわかりません。知りたいと思っても、わからないことはいろいろありますね。知るべきことと知らなくてよいことを、よくみきわめたいと思います。イエス様が自分に知ってほしいと思っていることを知ったうえで、毎日を過ごしているでしょうか。日曜日、「主の日」というのは「自分は今のままでよいのか」と主から問われる日でもあるのではないでしょうか。先週5/18(木)はイエス様の昇天日です。その場面からみことばに聴きましょう。
Ⅱ.みことば
1.知ってほしいこと(使徒の働き 1章3~5節)
イエス様が私たちに知ってほしいことが、3節にギュッとつまっているように思います。
一つ目は、「イエスは苦しみを受けた」(3節)ということです。今の私たちにもいろいろな苦しみがありますね。イエス様が受けた苦しみとは、どのようなものでしょうか?それは、私たちひとりひとりのために、十字架で死刑になり、死なれるという苦しみです。
二つ目は、「ご自分が生きていること」(3節)です。イエス様は確かに死なれたのに、3日目に復活されたことを「数多くの確かな証拠をもって」(3節)と示されたのです。今、目の前で生きているイエス様を弟子たちが見たこと、さわったこと、ものをお食べになるのを見たことも含まれるでしょう。復活後40日間、イエス様は弟子たちと過ごしました。
三つ目は、「神の国のこと」(3節)です。この「神の国」こそ、『聖書』の中心テーマではないでしょうか。『聖書』の最初、「創世記」に書かれている天地創造の神様のみわざの中で「エデンの園」は「神の国」のもとの姿、出発点ではないでしょうか。神様が愛によって支配し、人間は喜んで神様に信頼し、神様と共に生活していました。これが「神の国の生活」です。『聖書』の最後、「ヨハネの黙示録」に書かれている新しい天と地は、「神の国」の完成した姿です。すべての人がそこで喜んで神様と共に生活できるように、とイエス様は約2000年前に来てくださいました。イエス様を信じるとき「神の国の生活」がその人に始まります。それは、毎日の困難や悩みの中で、自分だけでがんばって無理をして「神の国の生活」のふりをすることではありません。神様に信頼して、神様と共に生活できるように「聖霊によるバプテスマを授けられる」(5節)とイエス様は約束してくださいました。今の私たちにとっては、イエス様を信じた時に聖霊である神様が自分に与えられ、洗礼を受けた時にそのことを確信できたことが「聖霊のバプテスマ」(Iコリント12:13)と言えるでしょう。イエス様が知ってほしいと思っていることを、私たちは知っているでしょうか。
2.知りたいことと主の約束(使徒の働き 1章6~11節)
イエス様の弟子たちは、自分たちが知りたいと思っていることをイエス様に質問しました。6節をお読みします。彼らが知りたかったのは「自分の国イスラエルがローマ帝国の支配から独立し自由で豊かになるのはいつか」、「それはイエス様が復活して聖霊である神様が来られるこの時なのか」ということでした。彼らは、神様に支配される「神の国のこと」(3節)よりも、ローマ皇帝から自由になる「自分の国のこと」に関心があったようです。
今の私たちが知りたいことは何でしょうか?世界は、日本はこれからどうなるのか、世の終わりや再臨はいつか、ということでしょうか。神が愛なら、なぜ、病気や災害があるのか、戦争や人殺しを止めないのか、ということでしょうか。あるいは、自分のからだがよくなり、自由に思い通りに動けるのはいつか、ということでしょうか。知りたいことはいろいろあります。朝のテレビ番組では、「今日の運勢」というコーナーが多いように思います。それだけ、自分がこれからどうなるか、知りたい人が多いのかもしれません。
イエス様は弟子たちが知りたかったことに、どうお答えになったか?7~8節をお読みします。知らなくてよい、人間が知る領域ではないとイエス様は言われました。「しかし」と言われて、その反対に、私たちに知ってほしいことを、イエス様は地上での最後のことばとして、言わば遺言を残されました。「あなたがたは、わたしの証人となる。このことを知ってほしい」と言われたのです。この世界が、この自分がこれからどうなるか、よりも、「今のこの自分は何者か」を知ってほしいと主は言われる。私たちは立場や役職があるうちは「自分は学生」とか「自分は会社員」などと言えます。私なら「自分は牧師」と言うでしょう。しかし、立場や役職がなくなり、たとえば私が10年後ぐらいに牧師を引退したら、私は何者か?立場や役職が何もなくなり、何歳になっても、身体が弱り何もできず、誰かの助けなしに生きられなくなっても「あなたはわたしの証人だ」とイエス様は言われます。私であれば、牧師でなくなり、誰かの助けなしに過ごせなくても、もともといろいろな人の助けなしには生きて来られなかった「小暮智久」という存在が、イエス様はどんなお方かを証言し、指し示す「わたしの証人だ」とイエス様は言われるのです。
ここにあるもう一つの約束は何か?9~11節をお読みします。イエス様は使徒たちが見ている間に天に昇って行かれました。これを「キリストの昇天」と言います。今年は先週の木曜日が「昇天」の記念日でした。使徒たちは天を見つめていた。当然でしょう。「イエス様がいなくなっちゃった」という喪失感、ぼう然とする思いでしょうか。そこにいつからいたのか、白い衣を着た二人の人がかけたことばは、使徒たちを現実に引き戻したのではないでしょうか。「このイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります」(11節)。イエス様がまた来られるという再臨の約束です。またおいでになる再臨の日が楽しみかどうかは、「自分は何者か」の自覚と関係があります。
Ⅲ.むすび
私たちが知りたいこと何でも、イエス様に祈って聞いてよいのです。イエス様のお答えは様々でしょう。「なぜ、それを知りたいのか」とイエス様に聞かれるかもしれません。それは、知りたいと思っているこの「自分は何者か?」と問われることでもあります。先週日曜日夜、大阪女学院ヘールチャペルを会場に開かれた小坂 忠先生を覚えての讃美集会に参加しました。忠さんがイエス様を信じてから初めて作った讃美、それがこのあと歌う「小羊イエスよ」だったそうです。「自分は何者か」がよく表れている歌ではないでしょうか。
(記:牧師 小暮智久)