2022年10月9日 礼拝説教 「起きよ、輝け」
聖書: イザヤ書 60章1~3節
Ⅰ.はじめに
今日の説教題に「輝く」という文字が含まれています。漢字の由来や成り立ちについては、この教会では有安富雄さん(関西大学電気工学科の元教授)という方が詳しくお話ししてくださいますが、私なりに調べてみました。左側の「光」は、「人」の頭上に光る「火」を表わすそうです。右側の「軍」は「軍隊」の「軍」です。私は「輝く」がなぜ「軍隊」と関係あるのかなと思ったのですが、辞書によりますと、ここでは「軍隊の活動が広い範囲である」ということから「広く」とか「広がる」ということを意味しているとのことです。つまり、「光が広がる」のが「輝く」という漢字の意味だということになります。
私が「輝く」で連想したのは、「お肌本来の輝きを」というような化粧品のコマーシャルでした。パソコンで少し検索しただけでも「肌本来の輝きを引き出すスペシャルスキンケア」とか「肌本来の輝きを手に入れよう 自然派コスメ」などのキャッチコピーがたくさん見つかりました。これらのフレーズは、肌の輝きに関心をもつ方々が多いことを示しているのではないでしょうか。さらに、内面的なものも含めた人間の輝きとは何でしょうか?あなたが、あなたらしく輝く、人間本来の輝きとはいったいどこから来るのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.人間の輝き(イザヤ書 60章1節)
私たちにとって、輝いている人というのはどんな人のことでしょうか?「年齢や性別を問わず、生き生きとしている人」、「大勢の人から注目され、人気のある人」「多くの人から尊敬されている人」などでしょうか。その理由としては、外見や能力がすばらしいとか、社会のために貢献していることなどがあるかもしれません。そのような人は「スター」と呼ばれることがあります。星のように輝いているという意味でしょう。私は小学校で「星」について習った時から興味を持つようになりました。空の「星」は、自分で光を放つものが多く、太陽も自分で光る「星」の一つです。一方、自分で光らず、光を受けて反射して光る「星」もあります。火星や木星などの惑星も月も、太陽の光を受けて光っています。
先ほどの『聖書』の箇所で「起きよ。輝け」(1節)と言われているのは、自分で光るのか、光を受けて光るのか、どちらでしょうか?「まことにあなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く」(1節)と言われていますから、自分で光るというよりは、自分の外にある光を受けて、「主の栄光」と言われている神様ご自身の光を受けて輝くということではないでしょうか。それが、私たち人間の本来の輝きだと『聖書』は示しているようです。つまり、人間は、神様に造られ生かされている者として、神様のすばらしさに照らされて光り、神様を指し示す光で輝くものではないでしょうか。したがって、人気のある人が「アイドル」と呼ばれることがありますが、これは「偶像(神に似せて作られたもの)」という意味で、人が自分で光ろうとしても神と同じにはなれないということを思わせられます。
2.人間のやみ(イザヤ書 60章2節前半)
私たち人間には、自分を犠牲にして他者を救うという気高い愛や思いやりに満ちた崇高な面があります。それは、本能に支配される動物には見られないものかもしれません。これが人間の「光」の面だとすれば、その正反対の面も人間にはあるのではないでしょうか。例えば、新聞やテレビで毎日のように話題となる事件、『聖書』の「十戒」の順番で言えば、殺人、強盗、姦淫、詐欺などです。その残酷さや悪質なことは、動物の世界には見られないのではないでしょうか。このような人間の「光」と「やみ」は非常に対照的です。ですから、気高く愛に満ちた人の「やみ」の面が見えると、「人間なんて信じられない」とか「人とは関わりたくない」と思ってしまうかもしれません。人間にはなぜ、「光」と「やみ」の面があるのでしょうか?また、「やみ」の部分は厳しい刑罰を科す「法律」があれば、あるいは、「しつけ」や「教育」によってよくなるのでしょうか?科学や技術は日進月歩で「進化」しているように見えますが、人間はよいものへと「進化」できるのでしょうか?
先ほどの『聖書』の箇所の続きには「見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を」(2節前半)と書かれています。これは約2700年前に書かれたことばですが、当時も今も、世界はさほど変わっていないのではないでしょうか。むしろ、闇はさらに複雑に深くなり、人間は良い者へ「進化」するどころか、人間のやみはさらに「深化」、深くなっていると言えるのではないでしょうか。『聖書』の最初の部分、「創世記」には人間は、神様によってよいものとして造られたと書かれています(創世記1:27,31)。人間は他の動物と違って「神のかたち」(創世記1:26,27)に造られました。「かたち」とは「アイコン」とも訳せることばで、神を指し示す目印のことです。人間は、神がどんなお方かを示すアイコン、目印として地球上に置かれたのです。神が光であるなら、その光に照らされて光るのが人間です。しかし、ある時、人間は自由な意志で神に背中を向け、自分の影の暗闇しか見えなくなり、そこを何とか照らそうと作り出してきたのが様々な思想や宗教と言えるかもしれませんが、人間が考えたものである以上、限界があり、やみの根本的な解決にはならないのです。
3.人間本来の輝きの回復(イザヤ書 60章2節後半)
神に背中を向け、闇に覆われた私たち人間を、光の源である神は見離したのでしょうか?いいえ。「しかし」(2節後半)ということばが、決して見捨てない神の熱心を象徴しているように思えます。2節後半をお読みします。人間本来の輝きを神が回復させるという約束がここにあります。この約束はどうなったか?それは、このことばが書かれてから約700年後、イエス・キリストというお方がこの世に来られた事実によって実現したのです。約2022年前、アジアの西、ユダヤの地にキリスト(救い主)が生まれたという「クリスマス」として知られている出来事です。このキリストは「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ1:9)としてこの世界に来られました。この光は、あなたにも届いています。このイエス様をキリスト(救い主)と信頼し、日常生活に受け入れるならば、その人は「神の子ども」(ヨハネ1:12)とされ、「世の光」(マタイ5:14~16)となります。まさに先ほどの約束は実現し、神のすばらしさを指し示す目印としての人間本来の輝きがあなたに回復されるのです。
なぜ、キリストなのか?それは、この光であるキリストが、私たち人間の闇が自分に招く刑罰の身代わりとなって十字架で死なれ、3日目に復活し、闇を葬り去ってくださったからです。このような解決ができるのは、罪の闇が全くない神の御子キリストだけです。
Ⅲ.むすび (イザヤ書 60章3節)
神様は私たちに今朝、「起きよ」と呼びかけておられます。「罪の暗闇の眠りから目をさませ。起きて、あなたを照らすキリストを受け入れよ」という招きです(エペソ5:14参照)。
世界のこれからはどうなるか?暗闇はますます深くなるように思えますが、世界の国々が神様の光に照らされて歩む希望がここにはあります(3節)。それは「新しい天と新しい地」「新しいエルサレム」において実現し、イエス様を信じた人はもちろん、諸国の民が本来の輝きを放ちつつ新しい地を歩むようになるのです(黙示録21:23,24)。
(記:牧師 小暮智久)