2022年9月25日 礼拝説教 「墓場から家に」
聖書: ルカの福音書 8章 26~39節
Ⅰ.はじめに
先日、英国のエリザベス女王の国葬が行なわれました。テレビなどでご覧になったでしょうか?場所がウエストミンスター寺院と言われ、私は「教会なのにお寺?」と違和感があり、調べてみました。すると英国ではWestminster Abbey(アビ)と呼ばれ、アビは「大修道院」「教会堂」を意味するようです。それを「寺院」と訳したのは私には違和感があります。いずれにせよ、それは英国国教会というキリスト教会で、多くの人がイギリスの教会で行なわれたお葬式に注目したのは確かでしょう。私たちフリーメソジスト教会はアメリカで1860年に創設され、そのルーツは英国で始まったメソジスト教会にあり、その最初の指導者ジョン・ウェスレーは英国の国教会の司祭でした。女王の国葬で讃美歌が幾つか歌われました。そのうちの一つ、讃美歌第2編150番「あめなるよろこび」は、ジョン・ウェスレーの弟チャールズ・ウェスレーが作ったもので、メソジストとしては嬉しくもあり、誇らしくもありました。あの葬儀の雰囲気がメソジストのルーツの一つであると言ってよいのではないでしょうか。あの国葬でも『聖書』が何ヶ所か読まれました。この教会の礼拝では2017年5月から『聖書』の「ルカの福音書」が読まれています。今日は前回8月21日の続きの所が読まれました。ここから神様の語りかけを共にお聴きしましょう。
Ⅱ.みことば
1.墓場に住んでいた人(ルカの福音書 8章26~29節)
時は西暦1世紀の30年頃、所は西アジアの今のイスラエルという国の北部です。そこにガリラヤ湖という湖があり、イエス様と弟子たちは舟で北の岸から南東の方へ渡りました。陸に上がられたイエス様を迎えたのは、どんな人か?27節をお読みします。それはその町の人で、悪霊につかれた男。その人は長い間、服を身につけず家に住まず墓場に住んでいました。本人は家に住みたかったでしょうが、家族に追い出されたのかもしれません。墓場というのはおそらく自分の意志ではなく、悪霊によって連れて行かれたのではないでしょうか。当時、酒の飲み過ぎで脳が破壊され、このような状態になる人はあったようですが、彼の場合、きっかけはアルコール依存症でも、そこに悪霊が付け込んで、彼にとりついたようです。単に精神障害的な症状ではない証拠が28節にあります。悪霊は私たち以上にイエス様がどんなお方かが敏感にわかり、反応します。「アレルギー」とでも言えるでしょうか、イエス様を見ただけで叫び、ひれ伏し、「私を苦しめないでください」と恐れています。これは、この人のことばのようでありながら、実は悪霊のことばで、この人は悪霊に支配されてどれが本当の自分かわからず、混乱した状態だったのではないでしょうか。この人は言わば、「汚(けが)れた霊」に捕らえられた被害者です。きっかけは、人間関係が苦手で、寂しさをごまかすため酒を飲み始めたことかもしれません。暴れて人々に避けられ、余計に孤独になって酒をやめられなくなり、悪霊につかれてからさらに暴力的になり、手足を拘束され、自分が生きている意味もわからなくなって、自傷行為(マルコ5:5)にも走り、孤独と混乱の極みに縛られていたのでした。「駆り立てられていた」(29節)とあります。今の私たちも、自分の自由な意志でなく、完全主義とか成果主義とか、何かに駆り立てられ、何かにこだわりすぎてしまい、それに縛られていることはないでしょうか。
2.イエス様の権威(ルカの福音書 8章30~33節)
この人に、イエス様は何をなさったか?30節をお読みします。「名前は何か」と問いかけました。イエス様は、彼が服を着ていないとか、墓場に住んでいるという表面ではなく、この人の問題の中心を見抜いておられました。彼は「レギオン(6000人の軍隊という意味)という名前です」と答えます。悪霊に名乗らせることで、本人に自分と悪霊とを区別させ、イエス様は悪霊を追い出そうとされたのでした。今もロシア正教会などで、いわゆる「エクソシスト」(悪霊追放者)による悪霊追い出しが行なわれているドキュメンタリーをテレビで見たことがあります。今の私たちも、災いが続くと「たたりではないか」とか、「因果応報的な考え」に影響されて、「何かの罪が原因ではないか」と不安になったり、自分を責めたりすることはないでしょうか。イエス様というお方は、表面ではなく、その恐れや不安の中心にあるものを見抜き、根本的な解決を私たちにもたらしてくださるお方です。
「6000人の軍隊」と名乗る悪霊たちは、イエス様に許可を懇願しています(31~32節)。明らかに、悪霊よりもイエス様の方が権威は上です。イエス様がそれを許可すると、悪霊どもはその人から出て、豚に入り、湖になだれ込んで死んでしまいます(33節)。私たちは悪霊の働きに油断せず、さりとて恐れ過ぎず、イエス様の権威を認め、信頼しましょう。
3.この出来事とこの人のその後(ルカの福音書 8章34~39節)
その後どうなったか?豚の飼い主はこのことを人々に伝え(34節)、聞いた人々は墓場に住む人がすっかり変わったのを見に来ます(35節)。そして、目撃者は何によって彼が変わったかを人々に知らせました(36節)。すると人々はイエス様に「出て行ってほしい」と願ったのです(37節)。なぜか?「恐れ」が2回繰り返されている(35,37節)のが、印象的です。墓場に住む不気味な人が正気に戻ったのですから「よかったね」と喜んでもよさそうなのに、この「恐れ」とは何か?それは人間離れした出来事や力への「恐れ」でしょうか。人々は結局、悪霊から解放された彼のことよりも、豚がたくさん死んだ損失など自分のことだけを考えたのではないでしょうか。また、イエスが一緒にいると、自分がなじんでいる今の生活を変えられていくかもしれないと恐れたのではないでしょうか。イエス様を信じたあと、しばらく礼拝に出席しなくなると、教会に来る前の生活に簡単に戻ってしまうケースを、牧師として見てきました。それほど、私たちは自分が変えられたくないのです。
一方、悪霊から解放されたこの人はどうしたか?38節をお読みします。彼はイエス様について行きたいと思った。当然でしょう。しかし、イエス様の答えは意外でした。39節をお読みします。帰るように言われた「家」とは、この人にとって居心地のよくない所、家族に見捨てられた所であり、また家で孤独になり同じことを繰り返すリスクのある所。しかし、イエス様がこの人に与えた使命は、一番苦手な人々の所へ戻り、神がしてくださったことをすべて話すこと(39節)。私たちにもそれが求められているのではないでしょうか。
Ⅲ.むすび
私たちは墓場に住んでいたことも、悪霊につかれて叫んでいたこともないかもしれません。しかし、自分以外の何かに支配されているような、自分の願う善を行なえず願わない悪を行なってしまったという時が、一度たりともなかったと断言できるでしょうか。それは、「自己本位」「自己中心」という「神は不要」と不遜な態度をとり、「自分を造られた神は邪魔だ」とする失礼な態度が原因です。この態度に縛られた私たちを自由にするために、イエス様というお方はこの世に来られ、十字架でその刑罰を受け、死んでくださいました。墓に葬られたイエス様を神は3日目に復活させ、このイエス様を救い主と信じる人のすべての失礼と不遜を赦し、神の子どもとしてくださいます。イエス様によって自分が変えられたその経緯は私たちそれぞれに異なりますが、それは「神があなたにしてくださったこと」です。今週、身近な人々に話させていただけるよう祈りましょう。
(記:牧師 小暮智久)