2022年9月4日 礼拝説教 「神の約束の中を歩む」
聖書: コリント人への手紙 第2 6章14節~7章1節
Ⅰ.はじめに
夏季休暇中もお祈りいただき、感謝します。私たちが一緒に礼拝をささげていました川島祐子さんが8月22日(月)から入院されると聞き、その前日21日(日)の夕方、お訪ねしてお会いすることができました。ご主人と共に笑顔で迎えてくださり、祐子さんは弱っておられましたが懸命に起き上がろうとされ、喜んでくださり、会話することができました。祐子さんは、イエス様がいつも共におられるという約束にうなずかれ、お祈りの結びには「アーメン」と言われました。入院されて3日目の24日(水)にイエス様のもとへ召されるとは思いもしませんでした。翌25日(木)の葬儀・お通夜に参列でき、地上でのお別れと共に、主のみもとでまた会える神様の約束の中にある恵みを覚えさせていただきました。祐子さんは、伝道者として知られる本田弘慈先生から、14歳の時に徳島県で洗礼を受けられました。お兄様が若くして召された際には、新潟県の糸魚川キリスト教会で葬儀をされたそうで、また、ご自身の息子さんが19歳で召されるという悲しみをも経験されたと、つい最近知らされました。祐子さんが初めてこの教会の礼拝に来られたのは2年前の7月です。私はもっと前から、長く一緒に礼拝してきたように思っていました。2年間という時間を、もっと長い期間だったように感じるほどに、私たちが同じ神様の家族であるというつながりと親しみが深められたのは、祐子さんが長いブランクを越えてこの教会での礼拝をそれだけ喜びをもってささげておられた、その姿に接したからではないでしょうか。
そして、27日(土)から私は関東・埼玉県の実家へ、翌日曜日は自分が洗礼を受けた所沢グレース教会で礼拝をささげたあと、この春に召された両親のお墓に行き、その後は実家の植木の枝払いなどをし、31日に戻りました。私は最近、人生は与えられたもので限りがあり、思いがけないこともあると意識させられています。神様によって生かされている私たちお互いに、神様がその約束の中を歩むように願っておられることは、何でしょうか?
Ⅱ.みことば
1.「救われる」という約束(Ⅱコリント 6章14~18節)
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)と『聖書』にある通り「イエス様を救い主と信じるならば、その人は救われる」というのは神様の確かな約束です。神様が私たちに、まず願っているのは「救われる」ことです。『聖書』が言う「救われる」とは「罪を赦され、滅びから救われる」「神様の子どもとされ、神様の家族とされる」「神様の民、神様の国の国民とされる」ことなどです。
この手紙が送られたコリントという町は道徳的に乱れ、偶像を拝む人々が多かったようです。そのような町でイエス様を信じた人は、いただいた「救い」のすばらしさと、今までの生活と何が決定的に違うのかを知る必要がありました。14~15節を読みましょう。「正義と不法」「光と闇」「キリストとベリアル(サタン,悪魔のこと)」がそれぞれ全く正反対であるように、イエス様を信じて新しく生まれた人は、決定的に変えられたのです。
第1に「救い」を受けた人は「神の宮」とされました(16節)。自分が神の宮なのです。
第2に「救い」を受けた人は「神の民」とされました(16節)。神の国の国民なのです。
第3に「救い」を受けた人にとって、神様は父となり、私たちは息子、娘とされました(18節)。イエス様を救い主と信じた人は、神様を父とする神様の家族とされたのです。
これらは神様の確かな約束であり、イエス様を信じた人にはこの約束が実現し、その人はこの神様の約束の中を歩む人とされたのです。
2.「全き聖化」という約束(Ⅱコリント 7章1節)
イエス様を信じて「救い」を受けた人は、「天国」、イエス様のみもとに迎えていただけます。しかし、多くの場合、信じた直後に「天国」に行くわけではありません。「救い」を受けてからも、様々な悩みや困難を経験しつつ、地上を生かされていきます。イエス様を信じて「救い」を受け、洗礼を受けたことはゴールではなく、「聖化」の始まりなのです。
「救い」を受けた人は、すべての罪を赦されました。でも、罪がなくなり、罪を犯さなくなったわけではありません。ここに私たちの悩みがあります。「救い」を受けた自分の中に罪が残っている現実です。思いや言葉や行ないで、神様に喜ばれないことをしてしまった時、神様が願うことをしなかった時、①「自分は救われていないのではないか」という疑い、②「このぐらいのことは誰でも同じではないか」というごまかし、③「教会に行きづらい」というやましさなどを経験したことはないでしょうか。しかし、罪を犯しても、「救い」は取り消されません。その罪を神様に告白するなら、赦されます(Iヨハネ1:9)。
では、私たちは「救い」を受けても、なぜ、罪を犯してしまうことがあるのか?イエス様を信じた人の立場は確かに「神の子ども」「神の民」に変わったのですが、中身が充分に伴わず、神様の子ども、神様の家族のひとりとして未熟であり、育つ必要があるからです。
ですから、「全き聖化」を求めるのです。7:1をお読みします。「このような約束」とは私たちが立場だけでなく実質的にも、神様の息子、娘、神様の家族となるという約束です。聖なる神様の家族とされたのだから、「自分をきよめ」ようではないかと言われています。ここの「きよめる」は瞬間的な出来事を表わす表現で、「全き聖化」という節目を意味すると思われます。「救い」は自分が神様の子どもとして新しく誕生した瞬間であり、「全き聖化」とは神様の子どもとして大人となる節目です。自分を献げ、神様はこの自分をきよめることがおできになると信じる時、神様は「全き聖化」を恵みとして与えてくださいます。
3.「新しい地に生かされる」という約束(ヨハネの黙示録 21章1~4節)
「全き聖化」の恵みを受けた人の愛は、成長を止めない愛です。ここでの「全き」とは、間違いや失敗はあり得る「完全さ」で、神様に喜ばれたいという動機における愛の純粋さ、「全き愛」とも呼ばれます。「聖さを全うしよう」(1節)と言われている通り、ゴールはまだ先に、イエス様が来られ、新しい地で、新しい「復活のからだ」をいただく日にあります。ヨハネの黙示録21章1~4節を開きましょう。ここには新しい天と地の約束があります。そこで私たちが聞くことばは、先ほどのⅡコリント6:16と同じ神様の約束です。新しい地では、神様が私たちと共に住み、私たちが神の民となるという約束が完全に実現するのです(21:3)。そこでは、今の私たちの悲しみや労苦が報われ、慰められるのです(21:4)。
Ⅲ.むすび
救われて洗礼を受けた人は、聖餐のパンと杯を受けるという主が定められた方法によって養われ、成長します。その聖餐は「主が来られる」という希望を指し示します(Iコリント11:26)。「天国」とは主が来られたあとの新しい地で、今のこの地が新しくされるのです。私たちに復活のからだが与えられる初穂としてイエス様が復活されたと語られた(Iコリント15:20)あとに、今の苦労がムダでなくその日につながるという約束(Iコリント15:58)があり、これらがみな同じコリント教会に言われたことは興味深いのではないでしょうか。聖餐の恵みを受け、神様の約束の中を歩み続けましょう。
(記:牧師 小暮智久)