2022年7月24日 礼拝説教 「逆転勝利はどこから」
聖書: サムエル記 第1 2章1~11節
Ⅰ.はじめに
新型コロナウイルスの感染がまた広がり、前回の感染の波を大きく越えそうです。また、ウクライナとロシアとの戦いは長きにわたり、その影響からか多くの品物が値上がりしています。さらには、元首相が凶弾に倒れたあと、旧統一協会と政治家との関係が取りざたされ、波紋を広げています。どこもかしこも行き詰まりや不安を覚える出来事に囲まれているように感じるのは、私だけでしょうか。現実をしっかりと見つつも、現実に左右されないためには、どこに目を向けたらよいのでしょうか?単なる悲観論や楽観論ではなく、出来事の本質を見抜いた上での本当の望み、希望を、どこに見出したらよいのでしょうか?
この教会の礼拝では『旧約聖書』の「サムエル記」を1月から少しずつお聴きしており、今日は前回6月26日の続きの所です。今から約3000年前の古代オリエントの世界に生きた人々のことばや行動、人間関係の苦しみなどが生き生きと表現されています。日本では縄文時代、弥生時代に入る500年ほど前です。その頃の人々の様子がこれほど具体的に書かれているのは驚きです。1章では、イスラエル民族のエルカナという男性と二人の妻たちが取り上げられています。妻ハンナには子がなく、もう一人の妻ペニンナは子だくさん。ペニンナはハンナをいらだたせ、心の痛みの中でハンナは神様に「男の子をくださるなら、神様にささげます」と祈ります。家族内の葛藤の中で彼女に念願の男の子が生まれます。ハンナはその子を乳離れするまで手元で育て、かわいい盛りだったでしょうに、誓いの通り主の宮に連れて行って祭司に託し、我が子を手放してしまいます。その時の祈りを、今も日本語で読めることに驚きと感動を覚えます。どんな気持ちが伝わってくるでしょうか。
Ⅱ.みことば
1.贈り物よりも送り主(サムエル記 第1 2章1~3節)
ハンナの祈りは「喜び」から始まります。1節をお読みします。「角」ということばに興味を覚えます。日本で和装の結婚式で花嫁がかぶる白い布が「角隠し」と呼ばれます。女性に「角」があるのか知りませんが(知っていても恐ろしくて言えませんが)、当時のイスラエルで「角」は「力」の象徴で、人の「角」とは、その人の「力」「尊厳」「価値」を意味しました。「角」は10節にも出てくるので、この祈りは「私の角」(1節)で始まり、「油注がれた者の角」(10節)で終わるとも言えます。ハンナは、「心」は大いに喜び、「角」は高く上がり、「口」は大きく開くと祈り始めます。あふれるほどの喜びが伝わってきます。
ハンナは何をそんなに喜んだのか?それは、念願の子どもが生まれたことでしょう。しかし、彼女は贈り物である子どもよりも、送り主に思いを向けています。そうでなければ、子どもを手放さなかったでしょう。贈り物だけを喜ぶのは、ご利益だけを喜び、それをもたらす神様のことを考えないのと似ています。学生時代に生まれて初めて手編みのマフラーを女性からもらいました(その女性は今の妻です)。とてもうれしくて、親に「今日は暖かいよ」と言われてもそれを首に巻いて学校に行きました。私がうれしかったのはその贈り物、しかし、もっと大切に思ったのは、送り主である彼女と自分へのその気持ちでした。
ハンナにとって送り主は「主」。「主にあって」「主によって」(1節)と祈っています。その「主」がどのようなお方かを表現しています。2~3節をお読みします。3つの「ない」ということばで主の偉大さをほめたたえ(2節)、このお方の前では、へりくだらざるを得ないと言います(3節)。なぜなら、主はすべてを知る神、そのみわざは測り知れないからです。
2.逆転させることができるお方(サムエル記 第1 2章4~8節前半)
お祈りの中盤でハンナは、人の状況が逆転する様子を語ります。勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯びます(4節)。5節では食糧や出産をめぐる逆転が起こることが語られます。6節以降では、逆転をもたらすことができるのは「主」であると強調されます。「主」である神様は、人を殺すこともできれば、生かすこともおできになります(6節)。人を「よみ」、死の世界に下すこともできれば、そこから「引き上げ」、復活させることもできます(6節)。
「よみ」ということばから毎週の礼拝で告白する「使徒信条」を思い起こすことができます。「主は聖霊によりて宿り、…十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり」という部分です。イエス様は神の御子であるのに、神様に対する私たちの背きの罪の身代わりとして苦しみを受け、十字架で死なれ、よみにまで下られました。イエス様をよみに下した神様は、そこから「引き上げ」3日目に復活させるという逆転を行なわれました。ハンナはここで、主は人をよみから復活させるという逆転を行なえる方だと祈っているのです。
さらに、貧しさと富の逆転が語られます(7節)。「富」や「高貴な者」(8節)が悪く言われているというよりは、強調点は、「弱い者」「貧しい者」(8節)が「ちり」「あくた」(8節)から引き上げられ「高貴な者」(8節)と一緒に座り、「栄光の座」(8節)に着くという逆転を、神様はもたらすことができるという点にあります。それは、イエス様を救い主と信じる者がすでにその国民とされている「神の王国」の完成の時、途方もない喜びとすばらしさに満ちた「新しい天と地」に私たちを住まわせてくださる神様の力を示しているのでないでしょうか。主は、罪ゆえに滅びに向かっていた者を逆転させることができる方です。
3.さばかれるお方と救い(サムエル記 第1 2章8節後半~11節)
野球などスポーツの逆転の場面で、私たちはどんな気持ちになるでしょうか?応援していたチームが逆転して勝った場合は嬉しいでしょう。しかし、応援するチームが逆転負けしたら、こんなに悔しいことはないでしょう。私たちはどちらのチームにつくでしょうか?
祈りの終わりの部分では、主がどんなお方かが告白されていきます。「地の柱」(8節)という表現は不思議です。当時の人々は地面の下に柱があり、その上に自分が住む世界が据えられているとイメージしたようです。地震は、柱が揺れ動くような現象だと考えたのかもしれません。自分が日常を過ごすこの「地」「世界」(8節)を据えられたのは「主」、神様だとハンナは告白しています。私たちは、この「主」の側につくのか。「主」に味方となっていただく人生を過ごすのか。この「主」の側につかないということは、この神様を敵に回すということです。神様を敵に回すことほど恐ろしいことがあるでしょうか。神様に戦いを挑んで自分の能力で勝てる人がいるでしょうか。9節をお読みします。ハンナは主の力の恐ろしさを知っていました。10節をお読みします。主はさばくお方です。この主に「油注がれた者」(原語では「メシア」、救い主という意味)(10節)が来られると示されています。さばき主であるお方がつかわす救い主こそが、確かな救いです。なぜなら、公正な審判を下す全世界の神が、そのお方に油を注いで「救い主」だと承認しておられるからです。
この祈りの後、エルカナ一家は帰り、幼子サムエルは祭司の元で主に仕えました(11節)。
Ⅲ.むすび
どこもかしこも行き詰まりに見えても、よみに下られたイエス様を復活させることがおできになった神様は、逆転させることができます。イエス様が復活されたのは日曜日。その逆転勝利を記念し,私たちは日曜日ごとに集まります。日曜日ごとに「神の国」の国民とされた喜びを深められ、救い主を指し示してその週を過ごしましょう。
(記:牧師 小暮智久)