2022年3月20日 礼拝説教 「すべての人の祈りの家」
聖書: マルコの福音書 11章 15~19節
Ⅰ.はじめに
すぐ近くの公園の桜のつぼみを、寒い冬のころからながめてきました。かたく小さかったつぼみがだんだん大きくなり、今は先の方がピンク色になり、今にも咲きそうで楽しみです。季節が確かに春に変わってきているのを感じます。
世界のキリスト教会は今、受難節(レント)という季節を共に過ごしています。それは、私たちひとりひとりのために十字架の苦しみに向かわれたイエス様を想いながら過ごすときです。日曜日朝9時からの「教会学校」でお聴きしている『聖書』のテーマも「十字架に向かう道」で、「十字架に向かわれたイエス様の心を知る」ということが目標です。さきほどお聴きした今日の『聖書』の場面は、イエス様が十字架にかけられるエルサレムという都に入られてすぐの出来事です。イエス様は何をなさったのか、それはなぜだったのか、イエス様のお心を共に思いめぐらしましょう。
Ⅱ.みことば
1.宮に入られたイエス様(マルコの福音書 11章15~16節)
今から約2000年前のアジアの西のはし、ユダヤという地方の都エルサレムに、イエス様と弟子たちは着きました。そこには、人々が神様を礼拝する神殿とそのまわりに広い庭があり、その全体が「宮」と呼ばれていました。イエス様はその「宮」に、神殿のまわりの庭に入られたのです。イエス様は何をなさったか?15~16節をお読みします。「その中で売り買いしている者たち」とあります。神社のお祭りの時の出店のように、そこで物を売ったり、買ったりする人々がいたのです。神殿でささげるための動物も売られていたのでしょう。また「両替人」もいました。神殿ではユダヤのお金しかささげられないので、外国から来た人々はユダヤのお金に両替し、両替人は手数料でもうけていたのです。「鳩を売る者たち」もいました。鳩は貧しい人々が神殿でささげるもので、そこで買えるのは便利でしたが値段は高く、売る人々はもうけていたようです。さらには「宮を通って物を運ぶ」人々もいました。神様を礼拝する場所を、近道として利用していたのです。
イエス様がなさったこと、それは、これら物を売り買いしている人を追い出し、両替人の台や鳩を売る者たちの腰かけを倒すということでした。優しいイメージのあるイエス様にしては、とても乱暴で、厳しい態度です。また、近道として「宮」をただ通るということも「だれにも」許さず、厳しく禁じたのでした。
2.イエス様の厳しい態度の理由(マルコの福音書 11章17節)
イエス様は、なぜ、「宮」の中で乱暴にも見える、このようなことをしたのでしょうか?それは、「宮」とその中の「神殿」で行われる「礼拝」が、すべての人にとってとても大切であるのに、「宮」の中での商売や両替や近道として通ることが大切な「礼拝」をさまたげ、何よりも神様が無視され、人間の都合が優先されていたからです。17節をお読みします。これは、イエス様がこの世に来られる前に書かれた「旧約聖書」のイザヤ書56章7節に書かれており、当時の人々は知っているはずのことばでした。「わたしの家」とは、「神様の家」であり「神殿」のことで「神様を礼拝する場所」のことです。そこは「あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と言うのです。
『聖書』は、この世界と全宇宙、そして、私たち人間は、神様によって造られたと語ります。特に、私たち人間は、神様とお話でき、神様と心が通じ合うように造られたのです。「祈り」とは、神様との会話、神様にお話しし、神様のことばを聞くことです。私たちは、神様に「祈り」、神様をたたえ、あがめる「礼拝」をするときに幸せを感じ、神様をますます信頼して喜んで従っていけるものとして造られました。
その「神様の家」である神殿や宮が当時、ものを高く売り、お金をもうける場所となり、神様よりも人間の都合を優先して近道として使われていたことに、イエス様は「おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった」(17節)と怒られたのでした。
3.人々はどうしたか(マルコの福音書 11章18~19節)
これを聞いた人々、特に祭司長や律法学者という当時の指導者たちはどうしたでしょうか?18節をお読みします。「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とあります。
彼らはイエス様がじゃまだと思いました。彼らは、「宮」での商売を許可して自分たちももうけていたようです。また、町の人々が、自分たちの言うことよりも、イエス様の言うことを聞くようになるのがいやだったのです。この「どのようにしてイエスを殺そうか」という相談が、イエス様を十字架で死刑にするという出来事につながっていきます。
今の私たちはどうでしょうか?イエス様というお方は、自分にとって都合がよいかどうかではなく、神様を中心として生活するようにと招いておられます。このイエス様を受け入れると、自分のしたいようにできなくなり、自由でなくなるのではないかと思うかもしれません。当時の指導者たちのように、イエス様をじゃまだと感じるでしょうか。しかし、本当は逆なのです。神様によって良いものとして造られた私たちは、神様を中心として毎日を過ごしていくときにこそ、本当の自由と幸せを感じられるように造られているのです。イエス様が人々の策略によって十字架での死刑にされたのは、すべての人の神様に対する背きの罪、神様をじゃまだとする自己中心の罪の身代わりでした。イエス様を救い主として迎える人には、神様を中心として過ごす自由と幸せが回復されるのです。
Ⅲ.むすび
「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(17節)ということばが心に響きます。「わたしの家」と神様が言われるのは、今で言えば「教会」です。教会は、あらゆる民の祈りの家です。「あらゆる民」とは、すべての民族、言葉や年齢も様々な、すべての人です。時々、「教会には洗礼を受けていない人が行ってもいいんですか?」と聞かれることがあります。「もちろん、いいんですよ。私が初めて教会に行ったのも洗礼を受けていない時でした」と私は答えます。洗礼を受けていない人も含めて、教会にはすべての人が招かれているのです。なぜか?「祈りの家」だからです。誰でも何かに祈ったことがあるのではないでしょうか。「祈りたい」という心は、この世界を造られ、私たちを造られたまことの神様が、すべての人に与えてくださっている「招き」であり、「神様とつながりたい」という人間の本能的な求めではないでしょうか。『聖書』によれば、「祈り」とは神様との会話であり、神様との友情を育てるものです。イエス様が十字架で私たちのために死んでくださったのは、まさに私たちがこわしてしまった神様とのつながりを回復するためでした。
今週、イエス様によって祈り、神様との友情を深めましょう。すべての人の祈りの家である教会に、身近な人が来られるようにお祈りしましょう。
(記:牧師 小暮智久)