2021年12月24日 クリスマス・キャンドルサービス説教「居場所はどこに?」

聖書: ルカの福音書 2章1~14節

Ⅰ.はじめに

 ここ東住吉区では「子どもの居場所ネットワーク事業」というのがあるそうです。「子どもの居場所」というのは学校や家庭以外の地域で子どもたちが安心して集まることができる第三の居場所で、具体的には子ども食堂や遊べる場所や学習支援の場所などだそうです。子どもだけに限らず、大人にも、誰にでも、「居場所」というのは必要なのかもしれません。家や職場以外で、ひとりでも安心して過ごせる場所、自分らしく過ごせる場所、誰かとつながりができ、利害関係なしに交流ができる場所は、誰にでも必要ではないでしょうか。

 今日はクリスマス・イブ。「クリスマス」とは、救い主イエス様が私たちひとりひとりのためにお生まれくださった日です。救い主は、どんなふうに、どのような場所に生まれたのでしょうか?救い主に、居場所はあったのでしょうか?

Ⅱ.みことば

1.救い主の誕生(ルカの福音書 2章1~7節)

 それは、いつか?1節にある「全世界の住民登録」というのは、今から2000年ほど前のローマ帝国が今の西アジアやヨーロッパ、北アフリカなど地中海世界を支配していた時代の、ローマ帝国の支配下にあったすべての地域の人口調査ということです。これは14年ごとに行なわれたそうで、古文書に記録が残っているのは西暦34年、48年、62年です。34年から14年を3回分引くと紀元前8年となりますが、1,2年の遅れがあった可能性があるので、紀元前7~6年頃と言えそうです。2021年というのはキリスト(救い主)の誕生から数える西暦の数え方です。数年の誤差はあるようですが、救い主の誕生は当時の歴史上の出来事の中に位置づけられる事実であることは確かです。

 それは、どこか?この住民登録の勅令がローマ皇帝から出たので、イスラエルの北部、ガリラヤ地方に住むヨセフという人とその婚約者マリアが、100km以上も南の出身地ベツレヘムという町へ登録するために旅をすることになりました(3~5節)。その旅先でマリアは出産、生まれた男の子は布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされました(6~7節)。そこが馬小屋とか家畜小屋だったとは書かれていません。ただ、「飼い葉桶」ということばから、羊や牛など家畜がいた場所ではないかと推測されています。生まれてすぐに「飼い葉桶」に寝かされるのは普通ではありません。その理由を『聖書』は「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(7節)と記しています。宿屋が満員だったからとは書かれていませんが、宿屋には彼らの居場所がなかったというのがその理由です。救い主は、その誕生から居場所がなく、飼い葉桶に寝かされ、そこが家畜など動物の居場所だったとすれば、そのような所から人生を始められたというのは印象的です。

2.誕生の知らせ(ルカの福音書 2章8~14節)

 それが最初に伝えられたのは誰か?今ならば「ニュース速報」としてテレビやスマホに情報が流れるでしょう。当時、救い主の誕生の知らせが最初に伝えられたのは、羊を飼う人々でした。「野宿」(8節)をし、羊の群れの「夜番」(8節)をしていた羊飼いです。当時、皆が仕事をお休みして礼拝に出かける時にも、羊飼いは羊の世話があるために仕事を休めず、礼拝にも行けず、人々から低く見られていたようです。救い主誕生のニュース速報は、そのような彼らに、世界で一番早く伝えられたのです。8~12節を読みましょう。「飼い葉桶」と「羊飼い」はよく似合うのではないでしょうか。救い主誕生の知らせは、当時の社会の中心にいた王様やエリートたちではなく、社会に居場所がないような、無名の羊飼いに伝えられたのです。「野宿」ということばは今の社会では時に、住所や仕事を持ちたくても持てない事情にある方々の姿を連想させるかもしれません。そのような方々が教会を訪ねて来られることが時々あります。何の援助もできない無力さを感じることがしばしばですが、もしもキリストが今の時代にお生まれになられたら、その知らせは真っ先にそのような方々に伝えられたのではないだろうかとも想像します。

 さて、「ニュース速報」が終わると、「野外ライブ」とも言えるような光景が始まります。13~14節を読みましょう。先ほどの天使と共に、ものすごい数の天の軍隊が現われ、神様への大合唱が始まったのです。そのモチーフとなるテーマは、「栄光は神に、平和がみこころにかなう人々にあるように」というものでした。これが、今日生まれた男の子、救い主によってこれから実現し、私たちに与えられるものなのです。

 「栄光は神に、平和がみこころにかなう人々にあるように」。それは、どのように実現したか?それは、飼い葉桶から十字架へと向かわれたこのお方、イエス様により、すべての人々のために実現し、用意されました。神様に造られたにも関わらず、神様に干渉されない方が自由だと思い、自分の生活の中での神様の居場所をなくし、神様に背いた私たちの「罪」の身代わりとなって、イエス様は十字架にかかられ、死んでくださいました。飼い葉桶も、十字架も、救い主には決してふさわしくありませんが、それは私たちの「罪」を背負い、神様と私たちとの間に「平和」を、生き生きとした神様との交流や親しさを回復するためだったのです。それを成し遂げるための「十字架」は、神様の愛と恵みがどれほどすばらしいかを示す「栄光」です。そして、「十字架」で死なれ、葬られ、3日目に死から復活されたイエス様を自分の救い主と迎え入れる人は、神の「みこころにかなう人々」とされ、その人には神様との間に「平和」が、親しい交流が、地上において始まり、死んだのちも永遠に豊かにされていくのです。キリストの十字架において、「栄光は神に」、「平和はみこころにかなう人々にある」ことが、すべての人のために用意されたのでした。

Ⅲ.むすび

 今という時代に、特にコロナ禍が始まってから「居場所がない」と感じる人々は増えているのではないでしょうか。そのような中でのクリスマスの時に、イエス様という「救い主」は、その誕生から「居場所のない者」のように「飼い葉桶」に寝かされ、その生涯は「十字架」という最も重い罪を犯した人に対する極刑に至り、社会のどこにも「居場所のない者」のように、神様にも、人々にも見捨てられたように見えることを心に留めさせていただきましょう。それは、神様によって生かされているにもかかわらず、神様に無関心となり、自分の生活や人生における神様の居場所をなくし、神様を追い出した私たちの身代わりだったのです。イエス様を救い主として私たちが自分に迎え入れる時、神様は私たちの背きの罪をすべて赦してくださり、私たちは神様の子どもとされます。それだけではありません。私たちは、神様が王である「神の王国」、「天国」の国民とされ、そこが私たちの「居場所」となります。「神の王国」での生活は、イエス様を受け入れた時から、この地上で始まり、死んだのちも続く、神様が共におられる生活、「永遠の居場所」と言えます。あなたのための居場所は、ここにこそあるのではないでしょうか。

(記:牧師 小暮智久)