2021年12月5日 礼拝説教「目をさまして」

聖書: マルコの福音書 13章28~37節

Ⅰ.はじめに

 私たちが日常の生活で、「何かを待つ」という時の気持ちはどんな感じでしょうか?信号が青になるのを待つ時は、イライラとか、早く変わらないかなあという気持ちでしょうか。私は東京で4年、東北の仙台で4年、関東の埼玉で17年過ごしてから大阪で暮らすことになり、「信号が青になるまであと何秒」という表示を初めて見た時とても驚きました。でも、あとどれだけ待てばいいのかがわかるのはいいなあとも思いました。誰かが来るのを待つというのは、どんな気持ちでしょうか?相手にもよるでしょうが、好きな人、大切な人なら、待っている時はワクワクするような、楽しみな気持ちでしょうか。

 先週から待降節(アドヴェント)に入りました。アドヴェントとは「到来」「やって来る」という意味です。救い主の「降誕」(御子である神が人となられたこと)と「再臨」(御子イエス様が再び来られること)の2つの「到来」の意味を思い巡らすのが、この期間です。今日は、イエス様が再び来られる日を待つあり方について、共にみことばに聴きましょう。

Ⅱ.みことば

1.その日は必ず来る(マルコの福音書 13章28~31節)

 イエス様が再び来られる日、それは今のこの時代、この世界の終わりの日とも言えます。その日は必ず来るとイエス様は言われました。それを示すために一つの実例を挙げられたのです。28節を読みましょう。「いちじくの木」はイエス様がおられた約2000年前の西アジアのイスラエルではよく見かける木でした。人々はいちじくの葉が出てくるともう夏が来るとわかったのです。イエス様がもし日本におられたら、桜の木を実例にして「つぼみがふくらんでくるともう春が来るとわかるでしょう」と言われたかもしれません。いちじくの葉や桜のつぼみは、次の季節が必ず来ることを示します。同じように「これらのこと」(29節)が起これば、イエス様はもう戸口まで近づいており、その日は必ず来るのです。

 イエス様が言われた「これらのこと」、その兆しとは何か?それは、この少し前、4~13節で語られています。にせキリストの出現(5~6節)、戦争や戦争のうわさ、国と国の対立、各地での地震や飢饉(7~8節)、迫害や福音がすべての民族に伝えられること(9~13節)などです。その後、宇宙にも異変が起こり(24~25節)、ついに「人の子」、つまりイエス様が誰の目にも見えるかたちで必ず来られるのです(26節)。このイエス様のことばの確かさはどれほどでしょうか?31節を読みましょう。今の天と地はやがて消え去りますが、イエス様のことばは決して消え去ることがありません。イエス様の再臨の日は必ず来るのです。

2.その日はいつかわからない(マルコの福音書 13章32~37節)

 イエス様がもう一度来られる日について、こう言われています。32節を読みましょう。その日がいつなのかは誰も知らない。「父だけが」(32節)、父なる神様だけが、知っておられるとイエス様は言われました。私たちは、どう感じるでしょうか。「必ず来られるが、いつかはわからない」。神様が教えてくださったらいいのに、いじわるで隠しておられるのだろうか、と考えるでしょうか。信号機の表示みたいに「イエス様が来られるのは、あと何日後、何時間後、何分後です」とわかったらいいのに、と思うでしょうか。それは、自分の死ぬ日が前もってわかるのがいいかどうかというのと似ているかもしれません。もし、イエス様の再臨の日時が前もってわかっていたら、ものすごく緊張するか、何もせずに過ごすか、自暴自棄になるか、人によって違うでしょうが、私たちは日常生活を落ち着いて冷静に送れないのではないでしょうか。知らなくてよいのだということでしょう。

 では「必ず来るが、いつかはわからない」というその日まで、私たちはどう過ごしたらよいのでしょうか?33~37節はその日までの待ち方を示すみことばの一つです。ここで繰り返されているのは「目を覚ましている」という待ち方です(33,34,35,37節)。これはどういう意味でしょうか?私は以前「目を覚ましているって、眠ってはいけないの?」と思いましたが、文字通りの「肉眼」のことではないようです。また、ある人の表現ですが「刑の申し渡しを受ける囚人のようなビクビクした態度」(渡辺信夫,『マルコ福音書講解説教Ⅱ』p.283)のような状態(私には不安や緊張や混乱で何日も夜眠れず辛かった経験がありますが)で「目を覚ましている」のとも違います。

 では、「目を覚ましている」とはどういう態度でしょうか?それは、暗闇から光に移された「光の子」として喜びをもって待つことです。Ⅰテサロニケ5:4~9を読みましょう。神様は、イエス様を救い主と信じた人を、「御怒りを受けるようにではなく・・・救いを得るように定めてくださった」(9節)のですから、安心して喜びをもって、その日を待つのです。なぜなら、来られるのはイエス様ですから。私たちを愛し、私たちのために十字架で死んでくださり、復活されたイエス様が来られるのですから、楽しみに待つことができます。

 イエス様が再び来られるまでの間、どのように過ごすのでしょうか?34節を読みましょう。ここでは、旅に出る主人がイエス様で、しもべたちがイエス様を信じる私たちひとりひとりを表わしています。イエス様は私たちそれぞれに「仕事を割り当てて責任を持たせ」(34節)てくださいました。マタイ25章の「タラントのたとえ」を思い出すかもしれません。能力だけでなく、与えられている時間や存在そのものも生かす責任があります。イエス様はあなたにしか果たせない責任をゆだねておられます。「10人の娘のたとえ話」を思い出すかもしれません。花婿がいつ来ても迎えに出られるようにともしびと油が切れないように予備も準備して待ちます。緊張感はありますが、来られるのは花婿イエス様ですから、不安や恐怖でなく、喜びに心をはずませて待つ時間を過ごせるのでないでしょうか。

Ⅲ.むすび

 イエス様は必ず、再び来られます。それまでにまず、イエス様を救い主と信じて救われ、神様の子どもとされましょう。その人は罪をすべて赦され、天国に迎えられるのは確実ですから、責められるのをビクビク待つのではなく、イエス様の再臨を、感謝をもって心をはずませて待つのです。その日はいつかわかりません。「目をさましていなさい」とすべての人に言われています(37節)。それは、現実から逃げて何もしないことではなく、現実の仕事や日常のことに心を注いでイエス様に心を向けなくなることでもありません。「目をさましている」とは心がいつもそこにあるということです。自分の心が、再び来られるイエス様に向いていることです。それは、ほかの何よりもイエス様を大切にしており、愛していることであり、イエス様が大切にしておられる私たちの身近な人々を自分も大切にすること、つまり、イエス様に対する愛と、人々に対する愛に目ざめているということではないでしょうか。主が再び来られる日まで続けられる「聖餐」によって、この愛に目ざめさせていただき、この愛を増し加えていただきましょう。

(記:牧師 小暮智久)