2021年11月7日 礼拝説教「必要な一つのこと」
聖書: ルカの福音書 10章38~42節
Ⅰ.はじめに
今年もあと2ヶ月を切りました。いろいろなことが気にかかる人もあるでしょうか。しかも、コロナの日々です。なかなか自分の思うようにできないこともあります。また、この先がどうなるかわからない毎日です。自分が思うようにはなかなかならず、見通しもつかず、焦りや不安を感じるようなとき、私たちはどのように過ごしたらよいのでしょうか?
Ⅱ.みことば
1.団体様のご到着(ルカの福音書 10章38~40節)
「さて、一行が」(38節)とあります。この一行は、イエス様と12人の弟子たちです。ほかにも誰か共にいたかもしれませんが、30歳前後の男の人が少なくとも13人の団体です。彼らが迎えられたのはどこでしょうか?「マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた」(38節)とあります。イエス様だけではないでしょう。この男13人の団体が、ふつうの家に立ち寄ったのです。「イエス様ご一行、団体様のご到着!」と言ったかどうかはわかりませんが、そこは旅館ではありません。ふつうの家です。しかも、予約なしです。13人の、食べ盛りと言わなくても30代の男性ばかりの団体客が家に来たらどうでしょうか?
マルタにはマリアという姉妹がいました。おそらく妹でしょう。妹のマリアはこの団体をどう迎えたか?何度かイエス様と会ったことがあるのでしょうか、マリアはイエス様の足もとに座り、じっくりとイエス様が語ることを聞くという迎え方をしたのです(39節)。
一方、姉のマルタはどんな迎え方をしたでしょうか?「いろいろなもてなし」(40節)とあるので、旅人の足を洗うための水をくみ、13人分の食べ物や飲み物の用意を始め、それを入れる器やお皿の準備もして、「これで間に合うかしら」と心配したかもしれません。「もてなし」ということばは、『聖書』のほかの所では「奉仕」とも訳されます。『聖書』は、マルタの身体がどう動いたかは書かず、彼女の心がどう動いたかを書いています。これは、彼女の心の中に起きたことで、それが人に対する不満としてことばになったのです。40節を読みましょう。自分がこんなに忙しくしているのに何もしない妹についてのイライラ、それなのに何も感じていないように見えるイエス様に対して不満がぶつけられています。
日本で一番古い本と言われる『古事記』は約1300年前に書かれたそうです(約700年前の写本が最古のもの)。『聖書』の「ルカの福音書」はそれよりも古く約1930年前に書かれました(約1800~1600年前の写本が最古のもの)。こんなに古い本なのに人々の気持ちが生き生きと伝わってくるのは『聖書』の魅力の一つではないでしょうか。そして、自分がマルタだったらと考えると、「その気持ち、よくわかる」と思えるのではないでしょうか。
2.選ぶのは自分(ルカの福音書 10章41~42節)
お客さんとして迎えられたはずなのに、こんなことをマルタに言われて、イエス様は、どうされたでしょうか?41節を読みましょう。名前を2度呼ばれたのは印象的です。イエス様はマルタを責めてはいません。むしろ、彼女の心の中で起きていることをよくわかってくださり、それをことばにしています。「あなたが『いろいろなことを思い煩って』(41節)いるのは、わたしへの『もてなしのため』(40節)で、奉仕のためなのはありがたいが、『心を乱して』いるね」と言いたかったようです。つづけて、こう言われました。42節を読みましょう。「いろいろなこと」と「一つだけ」ということばは対照的です。「必要なことは一つだけ」、「マリアはその良いほうを選びました」(42節)。どういう意味でしょうか?
「もてなし」「奉仕」とは、相手が望んでいることを聞き、それをさせていただくことです。自分がしたいことを、自分の思うようにするのは「もてなし」「奉仕」でないでしょう。「押しつけ」になるかもしれないからです。「自分が望むこと」を「実現する」のではなく、「相手が望むこと」を「させていただく」(この謙虚さが大切です)ことが「奉仕」や「もてなし」です。この場合、相手はイエス様ですから、イエス様が望むことは何かをまずお聞きし、それを「させていただく」のが「もてなし」であり、「奉仕」ではないでしょうか。
「必要なことは一つだけ」と言われても、すぐに納得できないかもしれません。私たちには、食べることや飲むこと、着る服や住む場所、仕事や学校での勉強、それにお金も必要です。健康な身体や考える力も必要です。必要なことは多くあるように見えます。しかし、どうでしょうか。神様に造られて、生かされている自分にとって、その命が神様に召されれば、その瞬間に今自分に必要と思えることは、みな必要ではなくなってしまうのです。反対に、自分を生かしておられる神様が望んでいることや考えていることを聞くことができれば、自分の毎日で必要なことは神様に信頼してお任せできるのではないでしょうか。つまり、イエス様の足もとでその語ることを聞くこと、イエス様を通して神様に聞くこと、それこそが、神様に生かされている私たちに必要な「ただ一つのこと」なのです。
それは、マリアが選んだように、自分で選ぶものです。マルタはこのあとどうしたでしょうか?「イエス様も男の人だから、やはりわかってもらえない」と考えることを選んだでしょうか。それとも少し落ち着いて、イエス様の足もとに座ることを選んで、「何を望んでおられますか?」とお聞きしたでしょうか。イエス様はこのあと十字架で死なれ、3日目に復活されました。それは、神様に造られ生かされているのに、神様に背き、神様から離れて「いろいろなことを思い煩って、心乱して」(41節)いる私たちの身代わりだったのです。このイエス様を自分に救い主として迎え入れるとき、私たちは神様にみことばに聞くことこそが、神様への「もてなし」、最高の奉仕だとわかるようになります。自分の人生のこれからの必要も、この世界のこれからのことも、すべてをご存知で、しかも、愛をもって導いてくださる神様とのつながりこそが、必要な「ただ一つのこと」ではないでしょうか。そのほかの、その時その時に必要なことは、それに添えて与えられます。
Ⅲ.むすび
誰かのために忙しく動くことと、静かにじっと聞くことと、どちらが大切かということではありません。イエス様は、その時、その時の自分に何を願っておられるか、それを自分の心をやわらかにして受け入れようとしているかが「必要な一つのこと」です。イエス様が、私たちひとりひとりのために十字架にかかり、死んでくださり、3日目に復活された、それほどの愛に、自分もまず心を開いてイエス様を救い主として迎え入れ、イエス様に喜ばれるような自分に変えられていきたいと願う愛、自分がしたいことを実現するのではなく、イエス様が望まれることをさせていただきたいと願う愛こそが、「必要な一つのこと」です。自分が日々することの動機は、イエス様への愛でしょうか?
(記:牧師 小暮智久)